2013年6月15日(土)18時30分、福井県小浜市の小浜市文化会館において、「福島の女性の話を聞く会『あなた方がわたし達のようにならないために』」と題した講演会が開かれた。講師の菅野みずえ氏が暮らしていた福島県浪江町は、町議会が1967年に誘致を決議した東北電力の浪江・小高原発計画に対し、住民らの強い反対運動によって建設を阻止してきた。しかし、原発設置を断ったにもかかわらず、近隣の町が原発設置を引き受けたために、福島第一原発事故によって甚大な被害を受けた不遇の町である。
一方、小浜市は、1960年代に浮上した関西電力による小浜原発設置計画に住民らが猛烈に反対し、2000年以降も使用済み核燃料中間貯蔵施設の誘致を断念させるなど、原子力と距離を置いてきた歴史を持つ。しかし、関西電力の大飯原発(福井県おおい町)から最短で4kmという至近距離に位置するなど、若狭地方の原発銀座の中央にあって、原発を拒み続けてきたのに、過酷事故が起きれば大きな被害を受けるという点で、浪江町と共通する。
- 内容 19:00~21:00
講師 菅野みずえ氏「浪江町のことを聞いてください ~ 『あなた』が『わたし』にならないように」
- 日時 2013年6月15日(土)18:30
- 場所 小浜市文化会館(福井県小浜市)
菅野氏の挨拶要旨
「私はもともと大阪に住んでいたが、夫が(実家の)あとを継ぐことになり、浪江町に移り住んだのは、原発事故が起きる2年ほど前。引っ越した当初は、原発銀座を怖がっていた。なのに、12分間も続いた大地震の強い揺れの最中も、原発が大事故を起こすとは夢にも思わなかった。あれほど原発を怖がり、反対してきたのに、心のどこかで安全神話を信じてしまっていた自分を恥じている。
その気持ちは、小浜の皆さんも同じではないだろうか。大飯原発が近くにありながら、まさかこんなことになるとは思わないという気持ちが8割ぐらいはあるのではないか。不安はあるけれども、大丈夫だろうという気持ちを何とか持っているのではないか。今の小浜の皆さんは、原発事故までの私たちの気持ちと同じだと思う。
いま皆さんは『2011年3月10日』を生きていらっしゃる。『3月11日』へと踏み出してしまった私たちの役割は、『こんなことがあった』ということを伝えること。原発のことを聴いていただけるところは少ないが、『あなた方も私たちになるかもしれない』という警鐘を鳴らすことは、事故に遭ってしまった者の務めだと思っている」
「講演の話の前に、皆さんに思い描いてほしいこと」
・子どもたちは道端で草を採ったり草で遊んだりしている
・土の上で遊んでいる
・どんぐりや木の実を集めている
・蝶々やトンボをつかまえている
・山菜採りやタケノコ採りをしている
「そのいずれも、私たちは奪われてしまった。そういうことが実際に起こった町の話。これらを私たちは失ったが、皆さんはまだ手の中に持っているし、まだ失くしていない。これからも持ち続けることができる日常。失くしたら二度と戻らないことだと、わが身に引き寄せながら聴いてほしい」
菅野氏の発言要旨
「事故後、国も県も東電も、浪江町には何も知らせてくれなかった。富岡町など、原発のある町には、避難バスが大挙してやってきたのに、原発と目と鼻の先の浪江町に東電は知らせなかった。地震後もauの携帯電話はつながった。知らせることはできたはず」
「原発から近い津島地区に全町民を避難させた。そこは風が向かった先だった。そういうことが全く分からないままだった」
「ADR(裁判外紛争解決手続)で慰謝料の申し立てをする。お金がほしいということではなく、そういうことを許さないぞという気持ちを表さないと納得できないから」
「人が消えた町。信号が点滅している。時間とともに朽ちていく町。私は、小浜市を通りながら、原発が爆発すれば、同じようになってしまうと感じた」
「『死の町』と言って(事実上)罷免された大臣(鉢呂吉雄経済産業相・当時)がいたが、私たちは『本当だ、よく言ってくれた』と思った。あの大臣はいちばん福島県にやって来てくれた大臣さんだった。彼(鉢呂氏)はこうも言った。『原発を考えるにあたって、委員の中で賛成が8人、反対は2人しかいない。なので、自分はその人数構成を5:5にしたいんだ』と。
そして、それを決めるという委員会(経産省総合資源エネルギー調査会)の朝に(事実上)罷免された。表向きは死の町と言って私たちを侮辱したからということになっているが、私はそうじゃなかったのではないかと思っている。5:5にされたら困る勢力があったのではないか。だから揚げ足をとって、(事実上)罷免させられたのではないか。私たちは死の町と認めなければ、誰がこんなことにしたのかという責任を問えない。死の町というのは本当のこと。誰もいないのだから。人の営みがあってこその『町』だ」
「浜通りの海辺で、人は二度殺された。一度は津波で、二度目は原発事故で。誰も助けに行くことができなかった。ここに請戸(うけど)の町があった」
「請戸川は鮭が遡上し、秋鮭のつかみ取りができた。イクラは家で漬けるものだった。原発事故は食文化も奪ってしまった」
「あれから、時が止まったまま。復興の兆しは何もない。(溶け落ちた)燃料棒がどこにあるかさえ分からず、対症療法的に冷やすしかない。毎日3万トンの汚染水が発生している。このどこに安全が見えるというのか」
「一坪地主として反対運動を続けた知人。なぜもっと反対しなかったのか、もっと反対しておけば防げたのではないかと自分を責め続けている」
「午後3時のお茶を飲もうと、ティーカップを置いたままの住宅内。カップが使われることはもうない。自宅はネズミに荒らされている」
「連れて避難することができず、せめて生き延びてくれと放たれた避難区域内の家畜の牛。人への信頼が厚く、人を見つけると一斉に寄ってくる」
「国は福島県に対し、半径20キロ以内の警戒区域内にいる3500頭の牛を殺処分するように通知した。しかし、『希望の牧場』は、飼っている350頭の牛を、『殺すのは忍びない。放射能の影響を調べるための生きた証拠になる』と言って拒否した。浪江町全体にはおそらく人口と同じぐらいの牛がいただろう。このうち、1500頭が殺処分された。そのほかにも、多くの牛が餓死した」
「お祭りや伝統芸能など、文化も失った。めんこい(可愛い)子どもたちの田植えや、豊作を願う踊り。2010年10月の秋祭りが、津島地区での最後の祭りとなってしまった」
「自宅の神棚。180年以上も大切にしてきた神棚。護るべき住人はもういない」
「賠償金という、持ち慣れない、まとまったお金を得た浜通りの住人は、身を持ち崩していると言われている。賠償は事故が起こった町とそうでない町の分断を起こしていると感じている。浪江町には抗議の電話が来ている。賠償を月10万ではなく35万にせよというADR申し立てのあと、『いくら金が欲しいんだ。税金だろ』というような苦情が多数」
「浪江町は山と海に囲まれ、娯楽が少ない。おっちゃんの楽しみはパチンコだった。決して、賠償金が入ったからパチンコに通っているのではない」
「飯舘村の避難所での話。国のモデル事業として除染の人たちがやってきた。大学の先生がやってきた。『ちょっとぐらいなら食べていいよ』と住民に言う。実際、飯舘村の心理カウンセラーを務める大学の精神科の先生が講演した。
『みなさん、マツタケを食べられないのはストレスですよね。ストレスを感じるぐらいなら、少しぐらいなら食べてもいいですよ』と言った。住民が立ち上がって怒った。『俺たちのストレスは、マツタケが食えないからじゃない。避難していることがストレスなんだ。キノコ食べてストレスがなくなるような馬鹿な話じゃない』と。その頃のマツタケは4万ベクレルもあった。
『ちょっとぐらいなら食べていい』という、その『ちょっと』の値を知りもしないで。住民のすごい抗議で、『じゃあ、食べないでください』と言った。そしたら住民がまた怒った。『じゃあって何だよ?』『ばあちゃんが作ったものを孫が食べないでおくということができるのか?分かってモノを言ってるのか?』。そういう住民の感情がなかなか伝わらない」
「田畑は、もとからあるわけではない。農民が毎日手を入れるから田畑が維持される。手を入れない土地は、原野へと戻っていく」
「2013年4月1日午前0時。私の自宅の地域は帰還困難区域に指定され、道路に扉がつけられて施錠された。雪でもないのに道に鍵が掛かるのは、おそらく初めてだろう。自宅への道が施錠されてしまう無念さ。安全ではないから当然なのだが、悔しい。誰がこうしたのかを思い続けたい。誰かが私たちにならないように」
「福島県内の川や湖にも、白鳥などの渡り鳥が飛来する。放射性物質の影響が心配」
「福島は本来、風光明媚で、野菜も果物もおいしく、人の温かい、本当に素敵なところだった。しかし、原発事故で食の安全が脅かされてしまった。原発事故で、みんな散り散りバラバラになってしまった」
「小浜は、『2011年3月10日』を生きているのではないか。その日がずっと続けばいいが。私たちは『3月11日』へと踏み出してしまった」
「黙って、この事故を受け入れるわけにはいかない。この国の原発政策は何だったのかと問い続ける私たちは生き証人である。しなければならないことがたくさんある」
「福島の放射能は、静岡のお茶からも検出された。小浜から飛ばした風船は岐阜県まで飛んでいる」
「学校給食を調べてほしい、私の持ってきたものを調べてほしい、そういう時代を私たちは生きている」
「セシウムが半減する30年後の故郷・浪江町を、私は見定めたい」
明通寺・中嶌哲演住職のメッセージ要旨(原発設置反対小浜市民の会・松本浩氏が代読)
「浪江町議会が1967年5月に、東北電力の浪江・小高原発の誘致をひそかに決議したのを町民が知ったのは、県知事による翌年の年頭挨拶を報じたテレビ番組だった。反対同盟が掲げた原則は、(1)原発に土地を売らない(2)町・県・電力と話し合わない(3)他党と共闘しない――この3つ。
誘致推進勢力からの切り崩し策動があったものの、最終的には今年の3月に建設計画を取りやめた。原発を拒み続けた浪江町は、福島第一原発事故に巻き込まれた。今は亡き反対同盟の舛倉隆氏と1982年に面談した際の言葉、『棚塩反対同盟は、土地を売る権利はあるが、子孫の健康を売る権利はない。絶対売らない』を私は改めて思い起こし、噛み締めている。
ひるがえって、わが小浜市の過去・現在・未来のことに思いをめぐらせずにはいられない。1968~1969年当時、市長も県知事も26名定数の市議の21名も、関西電力小浜原発誘致に熱意を燃やしていた。『美しい若狭を守ろう』をメインスローガンに、市内の漁民、労働者、青年など広範な市民が結集、団結して原発設置反対小浜市民の会は1971年12月に発足した。
小浜市民の場合は、都市部や中央で分裂している運動組織や政党まで含めて、共通目標のために一切の差別や排除をしない原則を貫いてきた。2万4000名の有権者のうち、1万3000~4000名の請願署名を市議会や市長に提出し、1970年代に2度、小浜原発誘致を阻止、2000年代にも2度、使用済み核燃料中間貯蔵施設の誘致を阻止した。実質上の地元住民としての発言権が付与されていたら、大飯原発の4機の建設も阻止できていたに違いあるまい。
『山が泣きます。海が泣きます。そして、子孫を泣かせないで』という小浜の女性の声を、浪江の舛倉さんの言葉と重ね合わせざるを得ない」