12月4日に発足された国家安全保障会議(日本版NSC)、12月6日に可決された特定秘密保護法、そして来年の通常国会に上程を検討していると言われている「共謀罪」の創設を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案。日本が「戦争のできる国」になるための法的整備が着々と進んでいる。さらに、「積極的平和主義」を掲げる安倍政権は、集団的自衛権の行使の容認を狙っている。
法が整うと、現実はまたたく間にかたちを成していく。
12月23日に開かれた第一回目の国家安全保障会議で決定されたのは、南スーダンで国連平和維持活動(PKO)を展開する国連部隊に銃弾一万発を無償で提供するという方針だった。今回は「緊急で人道的な対応」だからよい、ということだ。
武器輸出を禁じる三原則は、いとも簡単に例外を生み出してしまった。あまりに曖昧な理由による決定それ自体が、なし崩し的に戦争に進もうとする日本政府の方向性を明らかにしている。
そして安倍総理は12月26日、靖国神社を電撃的に参拝した。中国・韓国のみならず、東アジアの緊張増大を懸念する米国までもが、この安倍総理の行動に反発している。安倍政権の「暴走」は、明らかに日本の孤立を招きつつある。
日本が戦争のできる国になる。このことは私たちに何をもたらすのか。それを考えるには、とぼしい想像力をはたらかせるよりも、史実に目を向けた方がいいかもしれない。
我々が教科書で習ってきた「歴史」には、戦前・戦中世代が受けた「皇民化教育」ほど偏ったものではないにせよ、それでもなお、事実を直視してきたとは言いがたいバイアスがかかっている。近い過去なのに、実は明治維新以降の歴史でも、いまだ未解明の闇が残されていたりする。
現在の日本のありようにまで続く近代日本史にかかった「神話」のベールの最たるものは、「輝ける明治」という「神話」であろう。1931年(昭和6年)の満州事変以降、日本は泥沼の日中戦争に深入りし、あげく米英とも開戦して破滅した。軍部が暴走した「昭和の悲惨」と対置して、「それに比べて明治は偉大だった」と懐旧する構図が、すっかり定着してしまっている。
『坂の上の雲』を書いた国民的大作家・司馬遼太郎氏が描く世界、いわゆる「司馬史観」の構図、すなわち「栄光の明治」を美化した歴史観である。その中核に位置するのが、日清・日露両戦役での日本の勝利である。
ちなみに、新聞が戦争を煽り、国民を焚きつけ、部数を延ばして儲け、軍部と財界とメディアの「共犯関係」が生まれ、成立したのもこの両大戦からである。
12月23日、NHKは、天皇陛下80歳の誕生日のお言葉の中から、「平和と民主主義を守る日本国憲法」を擁護するくだりを削除して放送するという「暴挙」を平然と行ったが、これが改憲への地ならしであり、「戦争のできる国」への着実な一歩であることは言うまでもない。
今上天皇の意思など踏みにじってでも、戦争へ向かうための世論操作をやれるだけやってしまおう、という凶暴で卑劣な意志が読みとれる。戦前・戦中と同様、「戦後」のはずの今も、メディアが戦争の「共犯者」となりつつある。
話を戻そう。
日清戦争における主戦場はどこであったか。日本国内ではむろんない。清国領でもない。主たる戦場は第三国の韓国・朝鮮だった。そして犠牲者の数も最も多かったのも朝鮮人である。日本人よりも、清国人よりも、朝鮮人が最も数多く犠牲になったのだ。「司馬史観」では朝鮮は、大国・日本と大国である清・ロシアに挟まれた「地理的存在」とされた。そして、こうした認識は、今もなお、多くの日本人の深層を規定し続けている。
日清戦争のときに、日本軍が朝鮮半島で行ったジェノサイドについて、ご存知の方はほとんどいない。
ジェノサイドは常に歴史の表面から隠されてきた。むしろ、証人も証拠も一切残さないということがジェノサイドの本質ですらある。つまり、それは人々の抹消であるというだけではなく、その出来事そのものを歴史から抹消するという究極の隠蔽行為なのだ。
それでも、あるとき唐突に、その物的証拠が私たちの目の前に現れることがある。1995年に北海道大学で見つかった髑髏(どくろ)とは、まさにそのような証拠だった。もの言わぬ髑髏が物語るミステリー。そこに添えられていた書き付けを手掛かりに、歴史学者井上勝生氏が地道に点と点をつないでいったとき、それは凄まじいジェノサイドのかたちを描き出すこととなった。
1894年の「東学党の乱」は、一般的には農民の内乱として考えられ、私たちは教科書でもそう教えられてきたが、実際には、日本軍が朝鮮半島で展開したジェノサイドだったのである。
インタビューのポイント
①北海道大学で発見された「髑髏」の謎
日本が朝鮮を保護国にした翌年の1906年、札幌農学校の卒業生・佐藤政次郎が韓国に渡っていた。朝鮮半島植民地化の第一歩とも言える、韓国での綿花栽培プロジェクトのためである。これは、日本のものよりも品質のすぐれていた韓国の綿花栽培のノウハウを利用し、アメリカ陸地綿を大規模に栽培しようという事業だった。このプロジェクトを率いていたのが、のちに「平民宰相」として知られる原敬であることは、ほとんど知られていない事実である。
このプロジェクトのため韓国に渡っていた佐藤政次郎は、現地で偶然みつけた髑髏を「採集」し、北海道に持ち帰った。それが、1995年に北海道大学で発見された髑髏である。髑髏に添えられていた文書には、それが東学党蜂起の首謀者のものであると書かれていた。
②日本の教科書に記載されている「東学党」は存在しない
髑髏「採集」の12年前の1894年、「東学党の乱」が起こった。しかし実は、「東学党」という党は存在しない。東学とはひとつの思想の名前であり、韓国の民主化運動の原点とも言われる平等思想のことを指す。1998年、当時の金大中大統領が来日して国会で演説した際、アジアにおける民主主義の伝統として、東学の存在に言及した。しかし、日本の教科書は依然として、「東学党の乱」と記述している。
③歴史から抹消された1895年の抗日闘争
日清戦争のきっかけとなった1894年のいわゆる「甲午農民戦争(東学党の乱)」の他に、1895年にかけて起った大規模な抗日闘争があった。この抗日闘争を、日本軍は徹底的に弾圧し、虐殺のかぎりを尽くした。しかしその事実は、教科書はもちろん、明治27年に参謀本部が編纂した「日清戦史」全8巻からも削除されている。
④日本軍による王宮(景福宮)占拠事件とは何か
日本軍は日清戦争を、清から韓国を独立させるための義戦であると主張していた。ところが、日清戦争のきっかけとなった日本軍による王宮(景福宮)占拠事件を検証してみると、実際は日本による韓国植民地化のための戦争だったことがわかる。
1895年、日本軍は王宮に深夜に忍び込み、正門を爆破。さらに、反日・親ロ姿勢を明確にしていた朝鮮の明成皇后(閔妃)を暗殺した。しかし、日本軍によるこの王宮占拠事件は歴史から葬りさられている。
⑤ 東学農民戦争におけるジェノサイドの真実
東学農民戦争の実態は、日本軍が大本営の指令を受けて組織的に行った、韓国の農民に対する大虐殺だった。この大虐殺の中心を担ったのは、第一軍を率いていた山県有朋を中心とする長州閥によって編成された4000人の軍隊だった。それは、ほとんど武器を持たない農民を、スナイドル銃という新型のライフル銃でなぎ倒していく壮絶な「掃滅」戦であり、しかも計画的に遂行されたものだった。その証拠に、兵站総監だった川上操六は「(農民を)向後、ことごとく殺戮せよ」という電報を送っている。このジェノサイドの史実は、当時も、それ以後、そして今もなお、徹底的に隠され続けている。
⑥ 日本のジェノサイドを意識的に見逃した欧米諸国
日清戦争当時、国際法はすでに確立されており、日本もその内容を把握していた。つまり、一般の農民の虐殺は、明らかにやってはいけないこととして認識されていたはずである。
ところが、日本軍は東学農民の「掃滅」を行い、また、欧米諸国はそれを結果として黙認した。東学農民が繰り広げた、帝国の支配に対する抵抗の運動は欧米にとっても潰さなければならない対象としてみなされていたからである。
⑦ 捏造された靖国神社の記録
東学農民軍との戦いで死亡した、日本軍第三中隊の杉野寅吉という人物がいる。第三中隊隊長が現地から家族にあてた手紙には、杉野氏はヨンサン(連山)で死亡したと記載されている。しかし井上氏が靖国神社の忠魂史を調査すると、杉野氏はヨンサンではなく、ソウルで清国軍と戦った際に死亡したと記載されていた。このことからも、靖国神社の忠魂史を編纂した陸軍参謀本部が、朝鮮半島での戦闘を清国に対するものに限定し、東学農民軍に対する虐殺を隠蔽しようとしていた意図をうかがうことができる。
⑧ ジェノサイドを画策した中心には長州閥
東学農民軍との戦闘を指揮した日本軍のリーダーである南小四郎は、幕末期、禁門の変や戊辰戦争、函館戦争に参加した、長州藩の維新の志士だった。同じく長州出身の伊藤博文、井上馨と深いつながりがあったため、東学農民軍を殺戮するという秘密作戦を遂行するために、総理大臣だった伊藤と公使だった井上によって呼び出され、指揮官に任命された。
伊藤、井上、南と、朝鮮半島における日本軍の虐殺には、長州閥が深く関与している。なお、「ことごとく、殺戮せよ」と命じた川上操六(のちの参謀総長、陸軍大将)は、薩摩出身である。
⑨ 日清戦争における最多の「戦死者」は朝鮮人
日清戦争における最多の「戦死者」は、日本人でも清国人でもなく、朝鮮人だった。日本と清の死傷者がそれぞれ約2万人だったのに対し、現在の研究によれば、少なくとも、3万人から5万人の朝鮮人が死亡したと言われている。特に東学農民軍が逃げ込んだ珍島では、日本軍による凄惨な討伐戦が行われ、少なくとも数百人の朝鮮人が日本軍により処刑され、晒し首にされたことが分かっている。
⑩ 日韓併合を正当化するため、計画的な虐殺の記録を参謀本部が削除していた
日本は、1910年の日韓併合を正当化するために、東学農民軍に対する計画的な虐殺の作戦をなかったことにしようとした。参謀本部が作成した戦史には、東学農民軍に対する作戦計画に関する記述が一行も存在していない。
⑪ 「アジアなりの近代化」の芽を摘んだ日本の帝国主義
金大中がかつて「東学とはアジアなりの近代化だ」と言ったように、日本に強要されなくても、朝鮮には独自の近代化を模索する動きがあった。そのことは、明治維新後に日本に編入されたアイヌや沖縄においても同様である。
特に、アイヌやサハリンのニブフ族による自治運動は根強く、当時水産局の官僚を務めていた内村鑑三は、倭人とアイヌとの共同漁業権を認めるべきだと主張していた。しかし、日本は、欧米列強の「代理」として、朝鮮や沖縄、アイヌに対し、西欧的な近代化を押しつけていった。
南スーダンのPKOの国連部隊に対して、日本から銃弾一万発が提供されたが、その具体的な提供先は韓国軍である。日本政府は、韓国隊部隊長から切迫して要請されたと言っているが、韓国政府は「万が一に備えた予備」だったとして日本政府の主張を否定した。それどころか、 韓国政府は、日本政府が韓国軍への銃弾提供を過剰に広報しているとして、強い遺憾の意を示し、結局、銃弾の返還を申し出た。日韓両政府の言い分が噛み合わず、ぎくしゃくし続けるのはなぜなのか。
銃弾の提供には、日本が「戦争のできる国」へと近づいていく意志が端的に表れている。武器輸出を自ら禁じてきた武器輸出三原則は、この銃弾の提供から崩れていくだろう。このことを、韓国の一般の人々はどう感じているのだろうか。
1998年に当時の金大中韓国大統領が、「東学党の乱」について言及している。つまり、日本が行ったジェノサイドについて、韓国の人たちは今もしっかりと覚えているということだ。
ところが、日本では、「東学党の乱」が日本軍によるジェノサイドだったということは全く知られていない。戦史のなかからも事実が抹消されてしまっているからだ。両国の認識に大きなギャップがある。
日本が「戦争のできる国」への変貌の意志を示すとき、韓国の人たちは否が応でも過去のジェノサイドやその後の植民地支配について思い出し、反発や懸念を強める。それをそ知らぬ顔をして、日本政府は、あたかも善意であるかのように韓国に銃弾を提供しようとする。
日本と韓国の双方に、より多くの軍事的負担を求めているのは米国だが、「主役」は表舞台に顔をあらわさない。日本は「あげたくもない銃弾」を提供し、韓国は「もらいたくもない相手」から受け取っているので、日韓両国の認識の溝が埋まるはずもない。
韓国政府は韓国国民に向けて「感謝はしない」という姿勢をとり、その態度を見て日本ではまた「韓国人は礼も言えないのか」などと反感をつのらせる。一般の日本人の多くが基本的な史実について、とぼけているのではなく「知らない」のだから、ねじれた両国民の感情の落とし所が見つからない。
日本と韓国は、このままでは今後もっと大きな齟齬を生み出すことになるだろう。ボタンのかけ違いをただすには、「栄光の明治」の時代、その舞台裏で、日本軍は韓国人に対して何をしでかしていたのか、まずはその史実を知る必要がある。この不幸で無残な「事件」を解きほぐすことなくして、近代における日韓の最初の接点を理解することはできない。
北海道大学で発見された髑髏
▲岩上安身のインタビューに応じる井上勝生氏
岩上安身(以下、岩上)「私は今、札幌に来ております。とても涼しく、風に湿気がはらんんでいなくて、とてもさわやかです。
そんなさわやかな札幌に来ていますが、今日は『東学農民戦争と日本~もう一つの日清戦争』(※1)という、さわやかとはとうてい言いがたい、大変血生臭い日本の近現代史の闇について、北海道大学名誉教授の井上勝生先生にお話をおうかがいしたいと思っております。先生よろしくお願いいたします」
井上勝生氏(以下、井上・敬称略)「はじめまして」
岩上「はじめまして。このご本は、中塚明先生との共著なのですが、中塚先生には以前、ご自宅までうかがってロングインタビューをさせていただいたことがあります(※2)。
このご本、実は中塚先生から送っていただいたんですね。その中にお手紙が入っておりまして、『これが私の最後の本になる』と言うから、『先生、それじゃ、すぐにラストインタビューを撮らせてください』と言ったら、『くたびれたから、北海道の井上先生にとにかく話を聞いてくれ』とおっしゃられました」
井上「わかりました」
岩上「この本の冒頭に記載されていますが、1995年7月、北海道大学文学部で、髑髏(どくろ)が発見されたとあります。これはどういうことだったのでしょうか。まずはこの事件からお話をうかがいたいと思います」
井上「北海道大学に古河講堂(※3)という建物があります。正門の近くにあって、クラーク博士の像と向かい合うかたちで建っています。北大を観光で訪れる方は、必ずと言ってよいほど立ち寄る場所です。
古河講堂1階の東の端の研究室に、段ボール箱に入って、古新聞に包まれたかたちで、頭骨(とうこつ)が6体あったのです。そのうち3体は、『ウィルタ民族』(※4)の遺骨だという付箋が入っていました。その一番上に入っていた1体に、東学党(※5)の首魁(しゅかい)の骨だという書き入れがあったのです」
(※1)中塚明・井上勝生・朴孟洙著『東学農民戦争と日本~もう一つの日清戦争』(高文研、2013.06.12) 【URL】http://amzn.to/164s8mm
出版社による紹介文「日清戦争は、日本と清国(中国)との戦争だ。それなのに、最大の「戦死者」を出したのは、勝った日本でも、敗れた中国でもなく、朝鮮だった! 交戦国ではない朝鮮が、どうして最大の「戦死者」(3~5万人)を出したのか? 朝鮮王宮(皇居)を占領した日本軍に対し、朝鮮の農民三百万が竹やりで蜂起し、それを日本軍が“せん滅”した。長い間、歴史の闇に葬られて、韓国でも近年ようやく明らかにされてきたこの驚くべき事実を、日韓の研究者が共同で取り組んだ成果を、読みやすい形で提示する!」
(※2)歪められた歴史 日本軍・日本政府による朝鮮半島侵略の驚くべき史実~岩上安身による奈良女子大学名誉教授・中塚明氏インタビュー【URL】http://bit.ly/VWPL0t
(※3)古河講堂:1909年、北海道大学の前身である東北帝国大学農科大学の敷地内に建てられた。足尾銅山鉱毒事件で社会的非難を浴びていた古河鉱業が、内務大臣で古河鉱業の顧問を務めていた原敬のすすめにより、社会貢献事業の一貫として、講堂の建設費約14万円を寄付した。国の重要文化財として登録されている。【URL】http://bit.ly/hi5p7y
(※4)ウィルタ民族:南樺太を中心に居住している少数民族。トナカイの牧畜や漁労を主な生業とする。アイヌ民族からは「オロッコ」と呼ばれた。第二次世界大戦以前に日本国籍を取得し、日本の敗戦とともに南樺太から北海道網走市へ移住した者もいた。2002年の国勢調査によると、346人がオホーツク海沿岸の樺太北部および南部のポロナイク近郊に居住している。【URL】http://bit.ly/fwlxlD
(※5)東学党:李氏朝鮮の宗教家である崔済愚(チェ・ジェウ)が創始した教団。儒教、仏教、民間信仰を統合した思想を説いた。儒教にもとづく厳格な身分制度をとっていた李朝と対立、多くの農民を率いて蜂起し、1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)を起こした。この反乱に日本と中国(清朝)が介入し、日清戦争へと発展する。【URL】http://bit.ly/qnGTU2
髑髏はどこから来たのか?
井上「この頭骨には次のような文書が添えられていました。その全文は以下の通りです。
髑髏(明治三十九年九月二十日 珍島島に於て)
右は明治二十七年韓国東学党蜂起するあり、全羅何道珍島は彼れが最も猖獗(悪いことがはびこること)を極めたる所なりしが、これが平定に帰するに際し、その主唱者数百名を殺し、死屍道に横はるに至り、首魁(首謀者)者はこれを梟(さらし首)にせるが、右はそのひとつなりしが、該島視察に際し採集せるものなり。 佐藤政次郎」
岩上「『珍島』(※6)とは、演歌歌手の天童よしみさんが唄っている珍島物語の珍島ですか?」
井上「そうです。沖ノ島ぐらいの大きさの島ですけども、そこで討伐戦があり、数百人が殺されたと幹部が言っています。その中で、首魁たちが晒し首になった。その一つがこれだと言うのです。実際に晒し首になったのは、 おそらくもっと何体かあるでしょうね」
岩上「普通は戦争があって処刑されても、遺体は埋葬されているでしょうから、墓をあばきでもしなければ、このような髑髏を持ってくるということはできないと思います。また、髑髏を気楽に持ってくるということの神経もちょっとよくわからない。何か事情があるんだと思うのですが、そもそも死体はどのような状態にあったんでしょうか」
井上「珍島で討伐戦があって、日本軍と、日本軍に指揮された韓国政府軍が入っていきました。日本軍は一中隊の分隊ですけども。それが入って処刑をしたのは1895(明治28)年1月です。日清戦争が始まって2年目ですよね。
遺骨に書き付けが入っていて、『これを採集した』と書いてあります。採集という言葉を使っています。それが1906(明治39)年のことです。日本が朝鮮を保護国にした翌年です。
これは日本の農民や官吏が朝鮮半島に殺到した時期でしたが、ちょうどその時に採集されたものだというのです。数百人が処刑され、晒し首になりました。珍島だけではなく、全羅道もそうです。全羅道のあたりの埋葬法は特別なのです。草墳(そうふん)と言いまして、遺体はしばらく、松の木を敷いた上に曝す(さらす)のです。そこに草を掛けて、だいたい普通は3年間置く。
そうすると白骨になります。それを洗骨して、そして、別の墓に埋葬するのです。全羅道(チョルラド)、木浦(モッポ)、光州(クァンジュ)(※7)にそういう風習がありますが、元々は、東南アジアのほうにそういう草墳の風習がありました。
それを洗骨するわけですよね。だから死体を非常に丁重に葬る一つの方法なのですけれども、実際に骸骨(がいこつ)が、そういうふうに、ずうっと、山の斜面に曝されるという状態があるんですね。髑髏は多分、そういう状態にあったものの一つを持って来たのだと思います」
岩上「単に放置されたのとは違うんですね」
井上「そうだと思いますね。それで、それを、一つを持ってきたということだと思います」
(※6)珍島(ちんど):珍島は韓国の西南海岸の端にある、韓国で三番目に大きい島である。陸地と珍島とのあいだには鳴梁海峡があり、珍島大橋が掛かっている。東学農民軍が追いつめられて、最後の一人まで殺されたのが珍島である。(『東学農民戦争と日本』pp.155-156)
(※7)全羅道(チョルラド)、木浦(モッポ)、光州(クァンジュ)はいずれも韓国西南地方の地名。
「日本の教科書に記載されている「東学党」は存在せず・・・東学農民戦争の実態は、日本軍が大本営の指令を受けて組織的に行った、韓国の農民に対する大虐殺だった・・・」の事実は全く知りませんでした、驚きました。
このような、過去の「汚点:恥ずべき、又、償うべき事実」を隠し、自らを「美しい国」と称する国は『恥ずべき国』と非難されて然るべきです。
私達は、過去に真摯に向かい合い、それなりの対応をして、相手国から美しい国と言われるようになるべきでしょう。
このようにしてこそ「積極的平和主義」が構築されて行くと存じます。
全て読まさせて頂きましたが、論拠が全く確認も出来ませんでした。
”現代では、、されている〜” 等も証拠出典を記述して頂けませんと、論説の説得に乏しいです。