地域: 福島県
百人百話「第五十七話」須藤久孝さん 2012.1.21
特集 百人百話
「『福島産』と名がついたものは全部敬遠される」
会津若松市在住。65歳。子ども3人は独立し、いまは母と妻との3人暮らし。米専門の農家。会津は四方を山に囲まれたすり鉢型の盆地で、会津米は福島を代表する米。農家は売ってくれる農協に任せるという姿勢に傾きがちだが、努力せず自主性を失っていけばダメになる。事故直後、行政も農協も作ってはいけないとは言わず、ただ大変だ、だけ。結果、汚染されたものが出回ってしまった。線量は農作物すべてを計るべき。行政や農協に頼りすぎのありかたはマイナスだ。
百人百話「第五十一話」タエバさん(仮名) 2012.1.21
特集 百人百話
「今の福島県立医大病院にはついていけない」
医師。事故当時は、福島県立医大病院で働いていた。地震で散乱した器具を片付ける一方、入院患者を落ち着かせるよう努めた。津波によるけが人も搬送されてきた。傷の処置など病院内はまるで戦場のようだった、職員は不休状態で治療、対応にあたった。「ただちに健康に影響はない」という枝野発言の影響を最も受けたのは身体弱者。事故以降、適切な処置を施さなかった市長、知事の責任、何より正確な情報をもたらさなかったことが最大の誤りだと思う。
小出裕章氏 講演会 ~かんがえよう、わたしたちと子どものあした。~ 2012.1.21
2012年1月21日(土)、福島市子どもの夢を育む施設 「こむこむ」わいわいホールにて開かれた、小出裕章氏 講演会 ~かんがえよう、わたしたちと子どものあした。~の模様。
脱原発ドラムデモ in 南相馬 2012.1.14
2012年1月14日(土)、被災地である南相馬より反原発デモが行われた。南相馬市文化センターを出発し、JR原ノ町駅までのルートを往復。デモ後には懇親会も開かれた。
主催は、核-原子力事故救援NGO HCR(Heart Care Rescue)、共催はフクシマの命と未来を放射能から守る会。
百人百話「第五十八話」西片嘉奈子さん 2012.1.12
特集 百人百話
「一番の被害者は子どもたち」
福島市出身。34歳、2人の子をもつシングルマザー。いまは米沢市に移住。子どもも成長するにつれ、子どもなりのコミュニティを作っていく。親の思いで一方的に移住を進めるわけにはいかないが、将来病気になる可能性を示した上で、選択させる必要があると思う。手続きの際、福島に生活の実態がないなら児童福祉手当は打ち切る、市営住宅も退去するように、あなたは好きで出て行くのでしょ、と市の担当者に言われた。けれどいつか戻るかもしれないと思うと、住民票を移す決断もできない。ただ何事も、人のせいにはせず、自分で決断することが必要だと思う。
岩上安身によるインタビュー 第181回 ゲスト 『ぬまゆさん』こと沼内恵美子さん 2012.1.10
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2012年1月7日(土)、岩上安身は、「ぬまゆさん」こと福島県南相馬市在住の沼内恵美子さんへインタビューを行った。
沼内さんは日々の体調悪化について自身のblogに掲載されている方だ。
百人百話「第三十六話」渡辺杏里さん 2012.1.8
特集 百人百話
「死ぬんじゃないかなという恐怖」
郡山市在住 30歳。仕事は情報誌の広告営業。実家のある本宮市は、冠婚葬祭など横の繋がりを大切にする土地柄。事故当時は海から離れていたので、津波の映像は他人事のように感じたが、水素爆発を見て心配になった。家族も友人も福島に留まっているので、ひとり離れるのは裏切り行為のような気もする。結婚したいとも、子どもがほしいとも、今は思わないので、放射能のことは気にせず、このまま福島で仕事を続けていこうと思っている。
百人百話「第三十五話」裏澤利夫さん 2012.1.7
特集 百人百話
「痛みを感じなければ、すべて他人ごと」
78歳。福島市渡利地区に、妻、次男夫婦、孫2人と暮らす。ベットタウンだった渡利地区は、ドイツのテレビ局が取材に来るほどの高濃度放射線地区になってしまった。健康を考えれば避難すべきだが、働き盛りの息子世代にとっては、即失業につながり、事は簡単ではない。今回の原発事故を第3の敗戦と言う人がいるが、その通りだと思う。国は国民を守らない。責任を誰もとろうとしない不条理の世の中に苛立ちを覚える。福島も沖縄も日本の中の植民地だと感じる。
百人百話「第四十六話」大橋さらさん 2012.1.6
特集 百人百話
「『活動家』は自分の大切なものを守りたい人」
二本松市在住。40歳。夫と中学・高校の娘2人。家族仲は良く、いつもこたつを囲んでの団らん。避難中も寄り添っていた。迷い悩んだ末に屋内退避を選んだが、自分の危機感は甘いものだったと思う。講演会で内部被曝の深刻さを初めて知り、衝撃を受けた。事故前と変わらない生活を送る娘たちを見るにつけ、悲しくて仕方なかった。いまは一日も早く、子どもたちも納得のいく形で移住させたい。そして、不安を抱えているお母さんたちの力になりたいと思っている。
百人百話「第四十八話」佐々木道範さん 2012.1.6
特集 百人百話
「福島で生きる覚悟」
39歳。二本松市真行寺副住職。NPO法人「チーム二本松」代表。除染活動や食品の放射能測定は、いろいろな人とのご縁と支援によるもの。声を上げたら応えてくれる人が多くいて、初めて人の温かさ、人を信じることを知った。正確な情報が伝わらず、途方に暮れる檀家を残してここを離れたら、これまで語ってきた「命の教え」に反する、すべてが嘘になってしまうと思い、家族と留まる。理解ある妻に感謝。福島を忘れないでほしいと願う。
百人百話「第四十七話」佐々木るりさん 2012.1.6
特集 百人百話
「手をつないで、放射能と向き合っていく」
二本松市在住 38歳。家族は、真行寺副住職の夫と 5人の子ども、住職の義父。15歳で妊娠し、出産。夫は生涯をかけて自分と子供を守ってくれる人だと信じていたし、いまもそれは変わらない。事故後、一時県外に避難したが、檀家の期待、必要とされる喜びを知り、ともに二本松で放射能と闘っていこうと戻った。お寺は人が最後に戻っていく命に最も密接に関わる場所。そこを守っていくのが、自分に与えられた使命だと、今は思っている。
百人百話「第四十四話」菅野吉広さん 2012.1.5
特集 百人百話
「渡利の子どもたちを守りたい」
妻と子ども 2人の 4人家族。事故後、小学校での放射能説明会に出席した際、学校の対応に疑問を抱き、「渡利の子どもたちを守る会」を結成、代表となる。要望書を提出し、政府交渉を行ってきたが、難航している。会の仕事と本業に追われ、コミュニケーションの時間が取れなかった妻とは離婚話も出る状況に。そこで初めて、何より家族を最優先しなければと思い直した。自分の命にかえてもと思う子どもたちと、ごく普通の生活を送りたい。
百人百話「第三十七話」渡辺富士男さん 2012.1.5
特集 百人百話
「なぜもっと大きい声で言わないんだ」
飯舘村出身 58歳。福島市の借り上げ住宅に妻と母と暮らす。飯舘は、冬は厳しいが、自然豊かなところ。親戚が集まるときは賑やかで楽しかった。村では 30組の隣組と、結(ゆい)が力になっていた。今でも、ふと夜中に目が覚めると、飯舘の家での間取りを思い出す。今後除染が進んでも、新しい職に就いた若い人たちは帰られないだろう。若者がいない村で年寄りは暮らせない。子どもたちと孫たちと、家族みんなで住めることを願っている。
百人百話「第十五話」小堀健太郎さん 2011.9.25
特集 百人百話
「同じサーファーでも、意見も行動も分かれる」
いわき市在住。29歳。仮設住宅建設に従事。趣味はサーフィン。3.11は旅行先のオーストラリアにいた。テレビに映し出される映像を見ても、実感は湧かず、信じられない思いだった。ショックで悲しくて、家族の無事をひたすら祈った。帰国してからはずっと、線量が頭から離れない。数値が高いとマズイと思うものの、いちいち気にするのも面倒になってきている。長男でもあり地元は好きだが、いずれはこの地を離れようと思っている。
女たちの座り込みアクション報告会・「福島の女たち」、その3日間の全記録を報告 2016.10.14
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2011年12月25日(日)、郡山市労働福祉会館2F 中ホールで行われた、『女たちの座り込みアクション報告会・「福島の女たち」、その3日間の全記録を報告』の模様。
10月27~29日、経済産業省前で行われた「原発いらない福島の女たち」の座り込みアクションは、3日間で2371人(受付数)が参加し、その後、大阪・広島・富山・北海道・和歌山・京都・ロサンゼルス・ニューヨークにも広がる。
この間「福島の女たち」は連日記者会見、経産省に申し入れ、女性国会議員たちを訪問、首相官邸にも入った。地元である福島県で、その3日間の報告が行われた。
判決不服従アクションin郡山:疎開裁判の報告会「16日の裁判所の決定について」&『放射能からいのちを守る全国サミット』キックオフミーティング」(広河隆一氏) 2011.12.23
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12月16日(金)に、福島地方裁判所郡山支部から、人権侵害の「申立てを却下する」という判決(決定)が出たため、急遽、これについての報告会、および講演会を行った。
百人百話「第三十話」大塚愛さん 2011.11.5
特集 百人百話
「つながって生きていればいい」
岡山県生まれ。37歳。12年前に農業研修で訪れた双葉郡川内村で大工をしていた。夫と子ども2人の4人家族。事故後もライフラインに問題はなく、好きな場所を離れたくはなかったが、夫に促され岡山の実家をめざした。途中ニュースを見るたびに、怒りがこみ上げてきた。もう帰れないと頭では理解できても、気持ちがついていかず、毎日泣いた。関西以西は震災への関心が薄い。いまはここで伝えていくことが、自分の役目だと思っている。
百人百話「第三十二話」中田麻意さん 2011.12.21
特集 百人百話
「なんでテレビなんて信じてんの」
9歳の息子をもつシングルマザー。中学卒業後、様々な職業を経験し、離婚後も自分の収入だけで暮らしている。新聞やテレビの情報を信じ、「安全」を言う両親とは喧嘩が絶えない。カウンセラーの資格を活かし、仮設住宅を回っては、精神的にギリギリの人たちの話に耳を傾け、子どもたちにはおもちゃを配って歩いた。震災を機に価値観がかわった。モノがなくても、息子とごく普通の生活ができれば良いと思うようになった。いまは秋田への避難を計画している。
百人百話「第四十一話」尾形紀泰さん 2011.12.21
特集 百人百話
「人生をやり直そう」
43歳。家族は妻と子ども4人。事故後に避難した北海道小樽市で、全国から支援物資を集め、被災地区へ送る活動を始めた。2011年4月1日には、小樽の人たちと「Yarerukoto実行委員会」を発足させた。ただ、活動を進めるなかで、復興への前向きなエネルギーが満ちている宮城や岩手と、福島との違いに気付いた。原発は夢も希望も失わせる。いちばん大切で気になっているのは子どもたちのこと。将来、「オヤジ、あの時よく逃げてくれた」と言ってくれたらそれで良い。
百人百話「第二十九話」武藤類子さん 2011.10.14
特集 百人百話
「見えない柵」が張られている」
三春町在住。58歳。夫と母親の3人家族。経営していた喫茶店は、安全な料理が出せないからと閉じた。廃炉活動のひとつとして「女たちの座り込み」を企画した。私たちは「止められる」というメッセージを実感できたらと考えた。働く人を含め、原発には差別的な構造がある。利権も絡む。けれど震災により世界はかわった。自分で考え決断し行動する。それが社会をかえていく。隣人と語り合うなかから新しい社会が生まれてくればと願う。