【安保法制反対 特別寄稿 Vol.311~Vol.320】
7月中旬、2名の知らない学生が私の研究室を訪ねて来た。一瞬、成績に関わる陳情かと時節柄思ったが、彼らが発した言葉は少なからず私を驚かせた。「先生は、安保関連法案に反対する学者の会に賛同署名をなさっていますね?」
立て続けに彼らは言う。「教員として、署名の他に何かされないのですか?」
私にはもちろん直接の戦争体験はない。しかし、母方の祖母の家で育った私には忘れられない子供のころの記憶がある…。
私には、母方の伯父が4人いたはずだが、私はそのうちの2人しか知らない。残りの2人は中国とビルマで戦死しているからだ。母や伯母によれば、戦死の報を受けたときの祖母の狼狽は、それは激しいものだったらしい。玉音放送のあった8月15日、祖母の家では「御真影」が壁から外された。国や戦争に対する祖母の憎しみは極めて深く、私は幼少時に戦争の話をよく聞かされて育った。
祖母は私が小学2年生のとき認知症を発症した。それから毎夜のように、常に南西の方角を向いて、2人の伯父の名前を叫んだ。ただ叫んだ。何度も何度も繰り返し…。その叫びは祖母が他界するまで続いた。
「これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。」と安倍首相は戦後70年後談話で言った。しかしながら、もし「尊い犠牲の上に」という言葉が、「尊い犠牲があったからこそ」という意味を含んでいるとしたら、それは本当だろうか。尊い犠牲は今の平和のために避けられないものだったのだろうか。
日本は昭和天皇の開戦の詔勅で「帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲」と言って戦争を始めた。玉音放送(終戦の詔勅)においてでさえ、昭和天皇は「米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ」と言っている。「自存自衛」のための「尊い犠牲」だったのか。
しかし、その「自存自衛」とは、日本が明治以降他国を侵略し、拡張してきた領土を基準としてのことであり、さらにその支配を拡大しようとしていたことは明白である。ポツダム宣言も、「日本国国民を欺瞞して世界征服の暴挙に出る過ちを犯させた…」と指摘している。
もし、日本が真摯に平和を求め、領土への執着を捨てていたら、戦争は避けられ、尊い犠牲は払わずに済んだ。一部の人は、国の威信や国益を傷つける選択は出来なかったと言うかも知れない。しかし、威信と生命とどちらが大切なのか? 国益と生命とどちらが大切なのか? 国のために民がいるのではない。民のために国があるのだ。今再び「自存自衛」のため、「存立危機事態」に対処するために集団的自衛権を認めてしまえば、軍事同盟を通して、また愚かな戦争を繰り返すことになりかねない。
「周辺環境が変化してきた」と首相は言う。しかし、冷戦時の方が、ソ連のために今よりはるかに周辺環境は危険であった。首相は、周辺環境の変化として中国の軍事費増加、南シナ海の埋め立て、東シナ海のガス田建設について語る。確かに、これらの中国政府の活動に疑問は多い。行き過ぎた他国の行動には、外交努力によってこれを改めさせる必要がある。
しかしながら、中国政府と中国に住む人々とを混同してはならないということも忘れてはならない。残念ながら昨今、中国人が日本人を嫌っているから、我々も中国人を嫌ってもよいかのような風潮がある。確かに、いわゆる反日教育によって、中国人の一部には日本や日本人への誤解もある。しかし、誤解があるからこそ対話が必要であり、誤解は対話によって長い時間をかけて徐々に解いていくしかない。
一方で、決して武力では真の解決は有り得ない。武力で抑え込めば、憎しみが消し去れぬ禍根として残り、将来より不幸な結果を生むことは歴史が証明している。繰り返して言う。国の政府と、その国の人々は別である。政府間のいがみ合いの結果の戦争で、人間同士が殺し合う。これを正当化するどのような理由があろうか。日本人であれ、外国人であれ、誰一人戦争のために失われてはならない。日本は戦後70年、戦争で一人も殺さない「良い国」であり続けた。戦争をしてしまう「普通の国」に日本を貶めてはならない。
現政権は、たかだか2割程度の絶対得票率で衆議院の大勢を占めたことに驕り、過半数が反対する民意を無視し、明らかに憲法違反の安保関連法案を数の力で押し通そうと、国民の総意、合意を基本とする民主主義を矮小化している。首相や閣僚は、国会での質疑に誠実な対応すらせず、「YesかNoで答えてください。」と質されてもYesもNoも言わない。このような中身の得られない国会審議を、その時間の長さだけを根拠に、「議論を尽くした」と言う。その時間の長ささえ、11本もの法案を同時に審議するから一見長く見えるだけだ。国民を愚弄しているのか、戦争を火事や喧嘩に例えて話し、「分かり易く説明した」と言う。憲法学者のほとんどが法案を違憲と意思表明すると、「憲法の番人は最高裁判所であり、憲法学者ではない」と言い、憲法学という学問を否定する。砂川判決が認めた「自衛権」に、「集団的」があたかも付いていたかのように言い、金科玉条のように合憲の根拠と繰り返す。これだけ悪質な政権が過去にあっただろうか。我々は、決してこれを座視してはならない。
安倍首相は、本当は憲法解釈の変更だけでなく、現憲法そのものを変えたいに違いない。安倍首相に限らず、改憲論者はいつも「現憲法は押し付けられたものだ」と言い、自主憲法の制定を主張する。しかし、憲法を変えるべきか否かは、それが押し付けられたかどうかで決まるものではない。どのように作られたにせよ、悪い憲法なら変えなければならない、良ければ変えなくてよい。ただそれだけの話である。私はよく議論される9条を素晴らしい条文だと思う。理由は単純で、世界中の国々が9条を持てば、決して戦争は起きないからだ。このような理想を言うと、いつもそれが現実的でないという人がいる。しかし、まず理想という目標を持たないで、どのような現実的な行動ができるのか。
私は早速、学生たちと具体的な相談に入り、幸いにして学内に多くの協力者を得て、学習会の開催、署名運動、100大学共同行動への参加と、運動は急速に広がっていった。我々神奈川大学有志の運動は、日本全体から見れば、ほんの一部に過ぎない。
しかし、逆に言えば、全体の運動も一人一人の運動の結合であることも事実だろう。歴史はあたかも一部の傑出した英雄たちが築いてきたかのように語られることが多い。しかし、それは一面に過ぎず、その陰には、多くの無名の人たちの地道な働きがある。有名な政治家だけで、歴史が作られるわけではない。逆に、我々は重要なことが起こっているときに、自分にすぐには関係がないからと言って、何もしないという選択をしてはならない。人生が私たちに問いかけるとき、私たちはそれに答えねばならない。
ご存知の方も多いと思うが、ドイツの牧師マルティン・ニーメラーの詩を最後に紹介させていただく。
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。
私は社会民主主義ではなかったから。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は労働組合員ではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」
(マルティン・ニーメラー財団による作成、訳はWikipediaによる)
ニーメラーは反ナチ運動を展開した結果投獄され、1937年から終戦までの8年間を強制収容所で過ごした。戦後は平和運動に尽力した。
私はこの詩を思い出させてくれた学生たちに感謝する。我々は、今こそ立ち上がらなければならない。
(木村敬 神奈川大学理学部教授)
フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)の記者、カルステン・ゲルミス氏(2010年東京赴任)の記事は、読者の意見の多い記事(50件以上)を挙げると、2014年前半だけでも、犯罪の少ない社会と市民の不安(57)、東電の新原発建設(124)、安倍の原発推進(60)、原発回帰(72)、閣僚の靖国参拝(51)、少子化と人口減少(51)、後半~2015年3月まではなぜか一件のみで、政府によるアメリカの教科書への介入(歴史修正主義問題、69)だった。
今年に入ってからの記事は、読者の意見はどれも多くはなかったが、改憲、従軍慰安婦、IS人質事件、メルケル氏訪日、反原発運動がテーマだった。いずれも記者名入で、長文で、日本を熟知し、批判精神と示唆に富んだ記事が魅力だった。しかし、様々な情報によれば、日本外務省関係者からフランクフルトの本社に、直接クレームがあったということで、ゲルミス氏は3月末にドイツに戻った。
その後のFAZの記事は、記者名もない短い事象報告書が増えた。権力を用いて、ドイツの人々からさえも、事実を深掘りする真実の言葉を奪う。
安倍政権の代表的手法が現れていると感じる。これは、最悪の人権侵害、最悪の不正であり、これが今、日本の私たちを覆い尽くそうとしているのではないだろうか。
キング牧師は語っている。「平和は単なる戦争の不在ではない。公正さの存在が平和なのだ。」
今、私たちは、至るところで公正さを奪われている、と感じているのではないか。戦争に反対し、平和を求める声を、挙げ続けなければ、挙げられない時が来るのでは、と不安なのではないか。だからデモに参加するのだ。彼らはその時を狙っている。だから、声を挙げ続けなければならない。
彼らに聞こえるように。安保法案だけでなく、安倍政権の不正を告発するために。
海老原由美子 親和女子大学非常勤講師(ドイツ語担当・ドイツ文学専攻)
安保法制は日本が海外に自衛隊を派兵し「無制限に」戦争を実行するものであり、これに反対する。
1)自衛隊の海外派兵が、いつから始まり、いつ終わるのかが明確でない。
2)どこで、戦争をし、どこに移動し、どこから日本に帰還するのかも明確でない。
3)誰を相手に戦争をするのか。中東というささやきがあるが、わが国の中東における国々との友好関係を壊すつもりであろうか。
4)なぜ戦うのか。アメリカには政策があり、戦略があって戦争をする。日本はアメリカと政策、戦略を異にして理由もなく武力行使を「一体化」できないではないか。アメリカの戦争に納得のいく理由ももたずに参加していきかねない。
5)いかに「一体化」したアメリカ軍から離脱するのか。アメリカの指示がなければ離脱できないのではないか。荒唐無稽であるが、戦争遂行途中で「新三要件」を満たさなくなったときに、自衛隊の指揮系統と日本政府が国会承認を得て、海外から撤退するつもりなのであろうか。
安保法制は、わが国がアメリカの戦争に、何でも、どこまでも、いつでも、誰を相手にでも、どのような理由か分からなくても、どのよう に一体化するのか、また、一体化から離脱するのはどのようにか、あらゆる点において明確でない「無制限」戦争法である。戦争は合法的暴力である。暴力は低次元の問題解決手段である。
一方、多様で非暴力の思考は、戦後70年に豊かな日本をもたらした。暴力を行使しようとする人は非暴力を想像できない。それゆえ怖れられる。非暴力の創造は、合法的暴力を目的とした技術開発より人間にとってより貴重であると考える。
日本人は合戦(battle)については考えられても、戦争(War)については不向きである。
それでいいではないか。二度と戦争の誤ちを繰り返してはならない。
私は、安保法制に反対である。
(渡邉良弘)
英国作家メアリ・シェリーの小説『フランケンシュタイン』において、科学者フランケンシュタイン博士は、人類に恩恵をもたらすという理想に燃えて、死体を寄せ集めて人造人間を造り、怪物を世に放ってしまいます。
このところ権力者としてどんどん活性化してきた安倍晋三総理もまた、亡き祖父(岸元総理)の栄光を引き継ぎ、強い軍国主義の国を蘇らせ、日本を救う英雄になりたいという「死体」のような切れ切れの思いを寄せ集め、自分が正しいのだという妄想に駆られて、平和憲法をずたずたにし、日本に再び戦争という「怪物」を産み出そうとしています。
人造人間が出来上がるその日まで、周囲の世界から自らを遮断し、誰の声にも耳を傾けようとしなかったフランケンシュタイン博士は、怪物による殺戮の歯止めがきかなくなったとき、自分の犯した取り返しのつかない過ちに気づくのです。
安倍総理もまた、いかに学生たちや一般市民が大規模な反対デモを繰り広げようが、各分野の専門家が異論を唱えようが、先輩政治家たちがたしなめようが、安保法案が通過するその日まではいっさい無視するような人物であると、わかりました。安倍氏は日本のために自分はよかれと思っているのだ、と高を括っているのでしょうが、日本人がテロの標的になったり、自衛隊員が戦場で悲惨な体験をしたり、日本が殺し殺される国になったりする日が来てから、彼の過ちが証明されても、遅すぎるのです。
自民・公明政府は、方法を選ばず、何が何でも法案を通過させようとしています。主権をもつ国民の多数がいかに反対しても、どんな正論を突き付けて誤りを正そうとしても、もはや狂気に達した政治家たちを変えることはできません。猶予の残されていない今となっては、何としても法案を通過させないための具体的な策を練るべく、智恵を結集すべき緊急時ではないでしょうか。
たとえば、現職者が一国の総理大臣をつとめるための資格を欠いた病理的精神状態にあることなどが、もし専門的見地から証明されるというようなことがあれば、即刻退陣を免れないでしょう。本来は、与党議員のなかから、多数の国民の反対意見に耳を傾けるべきだという良識ある声が出てきても当然なのに、恐怖によって縛られているのか、あるいは洗脳されているのか、言うべきことも言わず誰もが黙従しているという、何とも情けない状況です。まずは彼らに、独裁の縛りから解き放たれて目を覚まし、党を超えて本来の政治家としての任務を果たしてもらいたいものです。
しかし、戦後70年の間に平和ぼけしてしまい、目先の利益に釣られて選挙で自民党を圧勝させ、独裁者という「怪物」を産み出してしまったこと、そして、「国民は馬鹿だから何とでもなる」と思わせるまでに彼を暴走させたことの責任が、国民自身にあるということを、私たちは忘れてはならないと思います。
廣野由美子 京都大学教授(英文学)
政治問題に頻繁に発言するようなことは避けてきたが、今回の問題は、立憲主義の根幹を揺るがすもので、レベルが異なるため、発言したい。
(以下は、2つの新聞に回答した内容に加筆したものです。むしろ見解のブレなさを示します。)
9条が自衛隊を許容するか、平時派遣のPKOを許容するかは争いがあろうが、( 友好国を攻撃したため集団的自衛権を行使する等の理由で)日本を攻撃する意思と行動を伴わない外国を先制して攻撃することを含む法令は端的に違憲である。自衛隊を合憲とする解釈は、個別的自衛権は近代主権国家が当然に有するとし、その実力としての戦力もしくは「自衛力」の限りでの実力行使は許される(一方で侵略戦争は厳しく禁じているとしてきた)としており、それを超える実力行使を許したのでは、そもそも自衛隊合憲論の根拠も危うい。
政府見解も9条をマニュフェストに過ぎないとするごく少数説を採ることなく、平時のPKO参加などを認めてきた筈であり、本法案は自らの解釈にすら矛盾するものである。自衛隊違憲論はもちろん集団的自衛権の行使を違憲とする。つまり、真っ当な範囲の複数の法解釈から、集団的自衛権を合憲とする解釈は出てこないものである。
「自衛権」に区別はないとする主張が散見されるが、二重の意味で無理がある。まず、国際法と国内法の関係は二元的なものであり、仮に、日本が集団的自衛権を行使しても国際法上違法ではないというのが国際法学の一般的理解だとしても、上記のように国内法上(憲法上)許されないことは動かない。
そして、集団的自衛権は、個別的自衛権とは大きく異なり、20世紀半ばに国連憲章が創設した国際法上の権利であり、国家の当然の自然権的権利ではない。そして、これを行使するには国の主体的意思による集団的安全保障条約の締結が必要である。
以上のことからも、集団的自衛権は憲法上認められないというのが主な憲法学者の9割余の見解となったことは、ごく当然である。ある論点で、法学者の9割が一つの意見で一致しているということは珍しく、学問的には争点ですらない(朝日新聞webをよく見ると、自衛隊違憲論者、現状維持派、憲法改正による集団的自衛権承認派まで幅広く本法案は違憲だとしており、政治的見解を超えて、真っ当な法解釈に集結したものと解される。これに対し、合憲と回答するか、無回答ながらそれに同調的な意見を示すのは、特定の学者の影響下にある特定学派に限られる。
どの学問でも、天動説の如き少数説はいる、と言うほかない)。まともに法学部で法学を学んだ者ならば、この結論に達しよう。なぜなら、仮に本法案が許容できるのなら、9条は日本国の行為の何を禁じているのか不明となり、法に値しなくなるため、集団的自衛権(日本を攻撃する意思のない国を先制攻撃する)を合憲とする解釈はおよそありえない。与党側が与党寄りと頼んだ有力学説ですら明快に違憲とし、元法制局長官、元最高裁判事、元保守政党有力政治家の多くがこれに賛同している。このことからしても、本法案は違憲であることがはっきりしており、これを前提に議論を進めてよいと言える。
因みに、政府側が度々引用した砂川事件最高裁判決は、日本国は戦力を保持せず、それによる「防衛力の不足」を「他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」とするもので、9条2項が禁じた「戦力とは」「わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊」は含まないとしており、ここで論点となっているのは個別的自衛権に基づくものと解するのが自然である。旧安保条約時代である判決当時、裁判で議論された事案とは、あくまでも外国軍隊の日本駐留である。司法権が、当該事件の解決を超えて法的判断を下すことは基本的には許されず、もしあったとしても「判例」の価値はなく、傍論に過ぎない。
そして、そうだからこそ、同判決は、裁判所が一般的には条約の違憲審査ができること、しかし、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り」における統治行為論を肯定し、最高裁が旧安保条約の憲法判断をしなかったことがポイントであるとするのが、(学界での議論、後の判決での引用、法科大学院や法学部での講義、大学入試における「政治・経済」等の出題までを視野に入れても、である。
なお、これまでに、今回の政府側のような趣旨で出題された入試問題等を多くご存知の方は提示して欲しい)まともな法学部関係者・出身者の通常の理解である。この判決を、日本国憲法が集団的自衛権を当然に許容したと読むことには無理であり、そうした理解は政府答弁まで思い起こしても、過去に聞いたことがない。新説である。新説であるならば、通説を覆すだけの相当高度の立証をして欲しいものである。
一歩踏み込めば、砂川事件最高裁判決等で示された統治行為論の重要な意味は、安保・防衛問題は国会・内閣の裁量だということではなく、最終的には国民の判断に委ねるという点にある。軍事の素人は黙っていろ、ではない。だが、近年の国政選挙で今回の提案のような内容が主たる争点となった印象はない。もし、政府答弁のように、この砂川判決を先例として積極的に読むべきであれば、本法案が成立しても、裁判となった際、本法条の少なくとも一部は、一見極めて明白に違憲無効の法令であるので、(その事案でそうすることが「司法権」の作用として可能かは、事案を見ずには明言できないが、)裁判所は違憲と宣言してよいことになろう。その意味でも、政府側が本判決を引いたことは不可解である。
防衛問題においては素人ながら、現政権の提案していることは、憲法判断を離れても、論理的にわからない点が多い。現政権は、中国の軍事的プレゼンスの拡大、近隣有事の際の邦人保護などを本法案提出の理由としているようであるが、そうであれば専守防衛や従来の安保条約の強化、近隣に友好国を増やす平和外交努力などが合理的であろう。
これは、現在の憲法・条約・法律(個別的自衛権の行使)の範囲内で対応できる。そもそも経済的に緊密化を深めている米中の軍事的衝突は本当にあるのか。日中の軍事的衝突をアメリカは容認するか。しかも、本法案を素直に理解すれば、実際には中国ではなく、世界最強のアメリカ軍を攻撃したもっと別の国を(日本とは友好関係にあっても)自衛隊が攻撃することになるが、これは反撃を呼び、在外邦人を危険に晒そう。国益に適う理由が現段階ではよくわからない。それでもなお、アメリカの戦争に加わらねば日本の安全は守れないか。
とんでも「戦争法案」が国会に提案されました。違憲は明白です。立憲主義も理解できない反知性首相にはほとほと呆れていますが、この独裁政権には、小さくても声を挙げ続け、それが少しでも拡大されることが重要だと考えています。
かつて会員の皆様に、いくらノンポリ末言爾でも、「憲法第9条」問題だけにはこだわり続けると「宣言」していました。若者に人殺しをさせてはなりません。殺されてもなりません。しかし、こんなにも早くその「危機」が訪れるとは、迂闊にも予想していませんでした。
そんな思いでいるなか、6月14日(日)14時から「国会包囲」行動の開催を知り、直前になって参加しようと思い立ちました。会員の皆様にはご案内もいたしませんでした。申し訳ありません。急遽、F島代表と、T田永世代表幹事長に声を掛け、25,000人の一員として国会を包囲いたしました。終了後、ビールもいただきました。
国会の状況は良くありませんが、今後も運動にはできる限り参加したいと考えています。参加したいという会員がいらっしゃいましたら、ご一緒しましょう。お誘いいたしますし、お誘いください。
カール=シュミットには与することはできません。「緊急事態」において独裁者を待望することは、「個人」「人権」を失うことです。
日本は、ドイツ・イタリアと比べても、戦争責任を追及してきませんでした。いまだに「ヤスクニ」は存在し、歴史的に明らかな「慰安婦」を否定するなどは、これまで政治家から発せられる「反省」が、言葉だけであり、信頼することはできないとアジアから理解されてしまいます。
しかし信頼を損ねる行動(政治家のヤスクニ参拝)への、アジアからの非難に、「何度謝ったらいいのか」「戦争を知らない世代には責任がない」などの言動が発生いたします。侵略した歴史への反省は若者にも及びます。その反省は「過ちは二度と繰り返しません」という宣言に他なりません。これを次の世代に受け渡すという責任が生じます。
そんななか、侵略戦争に対する、世界に向かっての「唯一」といって良い日本(日本人)の反省の表明が「9条」であった、と末言爾は日本国憲法を位置づけています。それを解釈だけで無効とする事態は、全く反省のできない国(国民)、信頼されない国へと向かわせてしまうことになりかねません。そんな国(政府)が「戦争法」を持てば、再び何をするかわからない、ということになってしまわないかと危惧しています。
怒りのまま論理もなく長く記してしまいました。合ハイがデモということになるかもしれませんね。もちろんデモ以外でもご提案をお待ちしています。
専修大学文学部歴史学科 飯尾秀幸(末言爾)
私事から入りたい。小さな娘二人を残し、祖父はニューギニアで戦死。祖母はニューギニアからの帰還者を訪ね歩いたものの、どの話も食い違いがあって、祖父の死を確信する証言に出会わなったという。
残された小さな娘の一人が私の母だ。母は昨年、傘寿を越えたが、今も戦争によって父親との死別を迫られたことへの怒り、無念は一向に癒えず、ふとした日常生活の一コマにおいても、その無念が激しくほとばしり出る。
そのほとばしりを浴びるうちに、高度成長期初頭に生まれ、戦争の矛盾とは向き合ってこなかった私も、母の無念さを引き受けたいとの考えから、自らの乏しい想像力を駆使して、手記や証言を読み聞きするうちに、殺されることはもとより、殺す立場に追い込まれながら殺されること…この、果てしない絶望の中で理不尽な死が強要される「戦争が正当化される社会」には、断固たる拒絶感をもった。
想像力の乏しい私でもたどり着くこの拒絶感は、もっと理論的に、あるいは気持ちに迫る説得的な語りかけ・叫びをもって多くの人が、連日、この瞬間も発信しているところだ。しかし、安倍政権は、この声を「国民の理解が進まない」という不遜な一言で片付け、破綻を極めた答弁で主権者を愚弄し続ける。これほどまでの、人間としての逸脱を個人が担いきれるものなのか・・・。
もはや個人の暴走を越えて、「戦争が正当化される」社会~「殺し・殺される関係」が倫理としてすり込まれ、システムとして装備される社会~づくりにむけて、与えられた任務を淡々とこなす・・・。安倍はその歯車と化しているのではないか。
今は、安保法案と安倍という歯車になんとかドライバーを投げ込んで「戦争が正当化される社会づくり」を止めるのが何より先決だ。しかし、仮に採決を回避できた場合でも、使えなくなった「安倍」という部品を取り替えて、即座に「戦争が正当化される社会づくり」は、「再稼働」するだろう。そういう仕組みであることが、今回の議論から明確となった。だから私も微力だが、何度でもドライバーを投げ続ける。その歯車を動かしているのは、一体何なのかを一層見極めるためにもだ。
集団的自衛権の容認が、ある日突然、降ってわいたものではなく、少なくとも1997年のガイドライン以降、アメリカとの関係において長らく潜伏してきたものであることが、法学の領域からも指摘されている。この構造はTPPにおいても全く同様だ。アメリカの年次改革要望や外国貿易障壁報告に沿った「規制緩和」が1990年代以降着々と進行し、日本の地域社会における仕事・暮らしの破壊が進行する中、それに抗する取り組みは「岩盤」として排除されてきた。
私は協同組合を研究する立場だが、戦争法案の成立に突き進む政権のあり様とこの事態に至る現代史を振り返ると、仕事・暮らしの破壊もまた、「戦争が正当化される社会づくり」に連動するものと考えるようになった。
だから、今は、安保法案を集中的に攻め、しかしその後も、「戦争が正当化される社会づくり」につながるあらゆる回路を見つけ出してはそれをふさぐ、そういう心づもりだ。
田中夏子 大学非常勤講師(社会学)
私がこれまでの人生で学んだことの一つは「リスクはない」と断言する人間を信じないほうが良いということです.社会や経済や政治というのは複雑で,確実に予想できることなんてほとんどありません.そして「不確実である」ということは「リスクがある」ということと同義です.リスクがないと断言している人間はよほどの間抜けか,願望や不安によって無意識にリスクから目を背けるように駆り立てられている自己欺瞞の囚人であるか,他人を危険な目に会わせることで自分が得をしようと思っているペテン師であるかのいずれかです.そしてそのどれであってもその人物は信用するに値しません.首相が自衛隊員のリスクは増大しないと断言した,その一点だけでも,私は彼らを信用できません.リスクはリスクとして説明し,それを上回るだけの利益があるからこの政策を推し進めたいのだというべきです.
(久木田水生 名古屋大学准教授)
私は女性9条の会、音楽家9条の会、世田谷9条の会など、さまざまな団体の一員として、また呼びかけ人として、今回の安全保障関連法案の成立に反対してきました。
まさか、戦後70年間、国際社会の中で、自国の平和憲法のもとに、胸を張って生きてきた今になって、このように不安な時代を迎えるとは、情けない限りです。
とはいえ、地球環境、社会環境は、経済の仕組みや食料問題、エネルギーの問題など、日本だけが声高に平和を叫んでも、すでに深刻な奪い合いのスパイラルに入っているのかも知れません。
でも、だからこそ、この小さな日本という地震列島が、大国の抗争の中に巻き込まれてしまったら、生き残る術は無いのです。
日本は、この空と海と大地と、清浄な空気を汚さずに、奪い合うことなく生きて行きたいと、心から望みます。そう望めば、国際社会に向かって、70年間守ってきた平和憲法と言う、理想の国是があるのです。誇りを持ってその道を進むしか、未来は無いのだということは、生き物としての感性があれば、きっと子供にも解る事でしょう。
それが解らない政治家は、もっと違った思惑と計算で、明日の「自分」を見ているから、立場でしか「正義」が見えてこないのです。恐ろしいことです。
私は一人の音楽家として、母親であり、孫のおばあちゃん、また高い税金を払い続けてきた一国民として、今こそ命がけで集団的自衛権の行使に反対し、憲法9条を守ります。
(湯川れい子 音楽評論・作詞家)
安全保障関連法案に反対する声は日増しに拡大しています。デモも今や当たり前の風景になりました。
しかし、それでもまだこの社会では、対面的な関係で政治のことを語りにくいという雰囲気があります。友達と政治の話はあまりしないという学生も少なくありません。そこには、もし話をして相手と異なる意見だったら気まずいから…というような躊躇があります。それは言い換えれば、周囲と「同じ」でなくてはならず、他者と「違い」があることは望ましいこととはみなされていないということです。
多様性という言葉が広まり、一人一人の違いが肯定的なものとして言及されるようになっていても、そして実際、各人の志向性は多様になっているにもかかわらず、まだこの「同じでないといけない」という空気は、人びとの日常生活を覆っています。
実は大学もまた、こうした状況と無縁ではなかったのではないかと思います。すなわち大学は、ともすると、「専門性」の名のもとに政治を遠くに追いやり、「中立性」の名のもとに個人の意見を主観的なものと捨ておくことで、結局、政治と日常生活を切り離し、個人の意見を公のものにすることをためらわせるこの社会をつくり出すことに手を貸してきたのではないでしょうか。
しかし実際には、大学、とりわけ人文社会科学系学部は、多様な意見をもつ個人の対話によって成立している空間、つまり一人一人が自ら批判的に考え、意見を表明し、他者の意見を聴き、それに応答する、という営みがなされる空間であるはずです。それゆえ民主主義が、人びとの対話に基礎づけられているとするならば、こうした人文社会科学系学部は、民主主義の担い手を育成する役割を担っており、またその空間は民主主義を実践する場そのものといえます。
今回の安保法制に反対する人びとの行動は、この社会で民主主義が再び胎動していることを示しました。大学生をはじめとする多くの若者が、卒業生が、市民が、民主主義の担い手として一人一人活動を始めました。
大学に身をおく者として、この動きを受け継ぎ、民主主義をより一層根づかせるための活動をこれからも続けていきたいと考えています。
(髙谷幸 岡山大学教員)