【安保法案反対 特別寄稿 Vol.316】 政治的なるものの概念 「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者 専修大学文学部歴史学科・飯尾秀幸さん

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 とんでも「戦争法案」が国会に提案されました。違憲は明白です。立憲主義も理解できない反知性首相にはほとほと呆れていますが、この独裁政権には、小さくても声を挙げ続け、それが少しでも拡大されることが重要だと考えています。

 かつて会員の皆様に、いくらノンポリ末言爾でも、「憲法第9条」問題だけにはこだわり続けると「宣言」していました。若者に人殺しをさせてはなりません。殺されてもなりません。しかし、こんなにも早くその「危機」が訪れるとは、迂闊にも予想していませんでした。

 そんな思いでいるなか、6月14日(日)14時から「国会包囲」行動の開催を知り、直前になって参加しようと思い立ちました。会員の皆様にはご案内もいたしませんでした。申し訳ありません。急遽、F島代表と、T田永世代表幹事長に声を掛け、25,000人の一員として国会を包囲いたしました。終了後、ビールもいただきました。

 国会の状況は良くありませんが、今後も運動にはできる限り参加したいと考えています。参加したいという会員がいらっしゃいましたら、ご一緒しましょう。お誘いいたしますし、お誘いください。

 カール=シュミットには与することはできません。「緊急事態」において独裁者を待望することは、「個人」「人権」を失うことです。

 日本は、ドイツ・イタリアと比べても、戦争責任を追及してきませんでした。いまだに「ヤスクニ」は存在し、歴史的に明らかな「慰安婦」を否定するなどは、これまで政治家から発せられる「反省」が、言葉だけであり、信頼することはできないとアジアから理解されてしまいます。

 しかし信頼を損ねる行動(政治家のヤスクニ参拝)への、アジアからの非難に、「何度謝ったらいいのか」「戦争を知らない世代には責任がない」などの言動が発生いたします。侵略した歴史への反省は若者にも及びます。その反省は「過ちは二度と繰り返しません」という宣言に他なりません。これを次の世代に受け渡すという責任が生じます。

 そんななか、侵略戦争に対する、世界に向かっての「唯一」といって良い日本(日本人)の反省の表明が「9条」であった、と末言爾は日本国憲法を位置づけています。それを解釈だけで無効とする事態は、全く反省のできない国(国民)、信頼されない国へと向かわせてしまうことになりかねません。そんな国(政府)が「戦争法」を持てば、再び何をするかわからない、ということになってしまわないかと危惧しています。

 怒りのまま論理もなく長く記してしまいました。合ハイがデモということになるかもしれませんね。もちろんデモ以外でもご提案をお待ちしています。

専修大学文学部歴史学科 飯尾秀幸(末言爾)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ