リアルタイムメディアが拓くジャーナリズムの新たな可能性(『リアルタイムメディアが動かす社会』より) 2011.9.8

記事公開日:2011.9.8 テキスト
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(岩上安身)

情報を受け手が編集し発信する時代へ

 近年、ツイッターに代表されるような「新しいメディア」の使い勝手が格段によくなってきました。それに伴い、とても面白いことができるようになりつつあります。

 私はジャーナリストとして、ずっと「既存メディア」の中で仕事をしてきました。ジャーナリズムの原点とは、人に正確に情報を伝えること。その機能を果たそうとするときに、今のツイッターやユーストリーム、ソーシャルメディアは、とても便利で、画期的な可能性を秘めています。一方、既存のメディアには制約が多く、窮屈で身動きが取れないと感じることが多々あります。

 たとえば、3月11日に東日本大震災が発生し、福島第一原発事故が起こって以降、抗議活動やデモ、集会などが全国各地で行われています。しかし、それらの行動は必ずしも可視化されません。情報として、既存のマスメディアが伝えないからです。そうなると、どこで何が起こっていても、それは存在しないことになってしまいます。つまり、各地で起こったどんな出来事も、それが報じられなければ、何らかの形で人々に伝えられなければ、存在しなかったということになってしまうのです。

 私は、こうした既存のマスメディアが伝えない出来事を、伝えなければいけないと考え、機会あるごとに、東電の会見やキーパーソンのインタビューなどに出向き、その都度ユーストリームなどを使って伝えてきました。

 福島第一原発事故以降、夜中に東電の会見が行われることが増えました。彼らの都合で、突然、夜中の3時や明け方の5時に、「今から資料を配るので、すぐに会見を始めます」と言うのです。そのため、私たちも24時間張りこみを続け、いつでもユーストリームで放送できる体制をとってきました。相手はこれまでにも情報を隠蔽してきたあの東電ですので、とにかく我々がしっかりと 一次情報を一般市民に届けなければならない。既存のマスメディアだけでは、いいように情報操作が行われてしまう可能性が高いと思い、徹底的に情報を流してきました。

 震災からちょうど3ヵ月の節目である6月11日には、「脱原発100万人アクション」と名付けられたサイトが立ち上がり、各地の運動に横のつながりが生まれ始め、全国百数十ヵ所で「脱原発」を訴えるデモやイベントが同時に開催されました。私たちは、その様子を余すところなく中継しようと考え、全国のボランティアの人たちに呼び掛け、緊急の中継市民講座を開催。IWJ北海道やIWJ沖縄など、合計93のエリアチャンネルを一挙に開設しました。

 これまでに私たちはユーストリームの岩上チャンネルを9チャンネルまで増やしていましたので、合わせると102局になります。そのうち実際に放送できたのは55ヵ所。6月11日の「脱原発100万人アクション」では、アワープラネットTVやオペレーションコドモタチといった市民メディアと協力して「6・11完全ライブ中継プロジェクト」を組み、全国55ヵ所で中継市民ネットワークによる多元中継を行い、さらに新宿にはキーステーションを設け、そこにゲストを招き、10時間余りにわたってぶっ通しの生中継を行って、ユーストリームで伝え続けました。

 もちろん、地上波のテレビでも似たようなことはできます。彼らにはそれぞれ自局のネットワークがあり、私たちとは比較にならないほどほどの資材・人員を持っています。その豊富な資材・人員を使って、全国各地にネットワークをつくり、スイッチングしながら一つの番組を作り続けていくのは、彼らにとってとても簡単なことです。「おはよう日本」や「ズームイン!!朝!」など、朝の番組では必ず行われている手法です。

 ただし、私たちと決定的に違うのは、こうした地上波の番組では、各地方局の持ち時間が数分しかないということです。一方、6月11日に行った「脱原発100万人アクション完全ライブ中継プロジェクト」でも、全国55ヵ所のチャンネルをたとえば5分間ずつ繋ぎながら、ローカルの中継を行いましたが、私たちの中継プロジェクトでは、各地で行われているデモやイベントは、中継でつながれた5分間だけでなく、その様子すべてがユーストリームの各チャンネルで伝えられています。たとえば、ある地方で3時間にわたって行われたデモや集会の様子もはじめから終わりまで丸々見ることができたのです。

 このように全国で丸々流されているライブストリーミングは、情報の価値としてはまったくの等価です。しかも、どの情報を受け取るかは、誰もが自由に選べます。たとえば、55チャンネルを切り替えながら、あるいは分割画面に3つ4つと並べながら、各々がいわば編集して見ることができるのです。

 情報は本来、このように受け手側が編集すべきものだと私は思います。編集権は画面の「あっち側」ではなく、じつは「こっち側」にある。このことがとても重要なのではないでしょうか。

情報の選択が、その人の人生を左右する

 こうしたライブストリーミング、あるいはソーシャルメディアが進化していくにつれて、何が大きく変わっていくのか?

 まず、ライブストリーミングやソーシャルメディアでは、「一次情報」がありのまますべて流されます。そのため、一次情報から都合よく”つまみ食い”して報道する既存メディアのウソが次々とバレていくでしょう。歪んだ編集や加工をしている既存メディアは、どんどん信頼性を失っていきます。

 私たち受け手にも変化は起こります。途方もなく膨大な量の一次情報から、自分はどれを中心に見ていくかと言うことを、今度は自分自身で決めていかなければなりません。言い換えると、この情報をチョイスする能力と判断がそれぞれの人々の認識を左右し、その人の人生そのものを形作ってゆくことでしょう。

 私たちは世のなかのすべてを知ることはできません。すべての情報を認識することもできません。人生も時間も限られています。学者だろうが、官僚だろうが、政治家だろうが、知識人であろうが、じつは非常に限られた局所的な情報にしか出会えないのです。

 しかし、この「自分の得ている情報は局所的なものである」という自覚を持つことがとても大切です。自分のいる場所から、自分の手に入れられる限りの情報の中から、何をどう取捨選択するのか。それを決めるのは自分自身なんだという自覚を持ち続けることがとても重要です。私たち一人ひとりが、そうした自覚を持てさえすれば、「情報を取捨選択し、国民に統一した情報を流すのが大手メディアの役割である」などという非常に傲慢な考えを打ち崩していくことができるのです。

情報を都合よく操作するマスメディア

 既存のマスメディアは相当おかしいという話をもう少し続けます。日々おかしなことばかり起こっていますので例を挙げればきりがありませんが、6月11日の「脱原発100万人アクション」でもおかしな報道が行われました。私も、こういった現実がなかったら既存のマスメディアの構造の中でこれまでどおり仕事を続けていたかもしれません。

 そもそも6月11日以前は、脱原発のデモが行われているにもかかわらず、既存のマスメディアはそうした現実をそれをほとんど扱ってきませんでした。しかし、6月11日の「脱原発100万人アクション」は、さすがに無視できないと判断したのでしょう。

 6月11日のデモでは、これまでバラバラに活動してきた複数の団体が新宿に集結し、東口を埋め尽くすほどの大規模な集会を行いました。この様子はユーストリームで中継しましたので、映像を見ていただければどれほどの群集がそこに集まったのか一目瞭然だと思います。しかし、驚くべきことに一部の既存マスメディアは、規模200人と報道したのです。

 私が見た限りでは、たとえばある民放テレビ局では、「全国でデモが開かれています」とまず伝えました。ここまではいいでしょう。しかし、規模については「練馬区では200人が歩きました」、とこれだけです。この日は、東京都内では新宿にもっとも大きなデモが集結し、それ以外にも20ヵ所以上で集会やデモ、講演会、シンポジウウムなどが開催されていました。ちなみに私たちはこのうち15ヵ所以上を実際に中継しました。都内だけでも、同時多発的に多数のデモが開かれていたのです。それなのにこの局ではわざわざ「練馬区では200人が歩きました」と報じ、もっとも大規模だった新宿のデモの規模を伝えなかった。どうしても「練馬区」の様子を伝えたかったのであれば、「東京の中では、練馬区のデモがいちばん小さかった」と言うべきです。

 さらに別のメディアでは、東京のデモの写真を出しながら、「新潟では200人が歩きました」と書きました。デモは全国百数十ヵ所で行われていたにもかかわらず、なぜか新潟の情報を選んだ。これは典型的なマニピュレーション、つまり情報操作です。これを伝えた人は「新潟では200人だった。ウソは書いていない」と言うかもしれません。しかし、東京の新宿と芝公園と代々木ではあわせて約2万人、大阪では約1万人という数の人がデモに参加していたのです。この事実、この数字を報道しない理由についてはどう説明するつもりなのでしょうか。

 つまり、既存のメディアは「6月11日の反原発のデモが大規模だった、ということを印象付けたくない」と考えているのです。しかし、ネットを見ていれば、既存メディアが明らかに情報操作をしているとわかります。我々のサイトで中継した様子を見ただけでも、わかってしまいます。既存のメディアは真実を伝えていない、という事実をすでに多くの人が気づいているのです。

 NHKでは、デモの規模は2400人と伝えていました。この数字も明らかに少ない。デモの様子を空撮している映像がありますが、これを見ても200人、2400人という数字が少なすぎることは一目瞭然です。

 デモに参加した人たちは、各自がツイッターやブログ、あるいはiPhoneの中継、ツイキャスなど、ありとあらゆる形で当日の様子を表現し伝えました。自分の実感や自分が見たものと、新聞などの既存メディアが報道していることが違うという事実を、改めて感じる人も増えています。たとえば「25年間とってきた読売新聞を今日でやめました」というツイートがわたしのところに寄せられました。よくも25年間もとり続けたなと思いましたが。この方は、ある程度はその新聞を信用していたからこそ、25年ものあいだ購読し続けてきたのだと思います。こうした方々の信頼を既存のマスメディアは裏切り続けている。今回の「脱原発100万人アクション」で行われたような、本当に驚くべき情報操作や考えられないような偽りの報道が、もっとも信用されるべき権威ある既存の大手メディアにおいて頻繁に行われているのです。

 ただし一方で、同時に真実も別の形で伝えられるようになってきています。とはいえ、ソーシャルメディアやネット情報だけではまだまだ不安がある人々にはどう伝えていったらいいか。私は、もっとも古くから存在していて、アナログな手段を見直して、積極的に活用・併用すべきではないかと思います。つまり、直接対面で情報を伝えてゆくのです。

 古来から、人が情報を伝えるために用いられてきた、最も確かな伝達手段は「集い」と「語らい」です。私は1年ほど前から、全国でトークカフェというミニ講演会兼対話集会を開き、実際に参加者の皆さんとお話ししたり、できる限り直接応答するように努めています。講演会が終わったあとも、懇親会などを設けて愉快に飲みながら、みなさんとお話をする。一見、とても非効率なようにも思えますが、実は、最も先端的なソーシャルメディアと、アナログな「集い」と「語らい」は、相性がよく互いに補い合う補完関係にあります。トークカフェに足を運ぶ方々も、皆、ツイッターでの呼びかけに呼応した方々です。実際、対面してコミュニケーションをとることはお互いを理解するうえでもっとも重要な方法であることに、昔も今も変りはありません。私も、毎回多くの人と直接話をするなかで新しい事実を知り、「なるほど」と感心することが多々あります。これからは、こうしたいわばアナログな努力も強化していきたい。それによって中継を支援してくれる人の輪を全国に広げて行ければと考えています。たとえば市民レポーターなども増やし、育成に力をそそぎたいとも思っています。次々と事実が報じられるようになれば、既存のメディアに全国的に依存する必要はもうありません。嘘ばかり報道するメディアは、読む必要も、見る必要もないのです。

共感によって支えられる、新しいメディアの形

 私は商業ジャーナリズムの世界で原稿を書き、テレビでコメンテーターをやり、原稿料や出演料を稼いできました。そうやって情報を売ってご飯を食べるのがジャーナリストであり、そういうものこそジャーナリズムだと、これまで思い込んできました。

 しかし、インターネットの発達とともに、大きな社会変化が起きています。とくに日本における変化は大きい。ジャーナリストやもの書きというのは、基本はメディアに情報を売るのが仕事ですが、私はメディア自体をつくっていこうと考え始めました。

 手始めに、「インディペンデント・ウェブ・ジャーナル」という会社を立ち上げました。非常に小さく、貧弱な会社ですが、ソーシャルメディアのオーガナイザーでもあります。現在、人を少しずつインスパイアしながら事業を構築しているところです。

 もちろん、事業を拡大していくためには、時間がかかるだろうと思っていました。現状では、全て無料で情報を配信提供しており、イベントなどを除いて売り上げがありません。スタッフの人件費を含む活動資金は、基本的には私個人の持ち出しです。今後は会員制にして、ウェブサイトで配信する情報を有料化しようと考え、課金システムを構築中ですが、まだそのシステムはでき上がっていません。とはいえ、資金面の問題は後回しにしても、保安院や東電などの会見は、今すぐ、すべて中継したい。そうやって動き回っているうちに、こうした人手や機材が足りない状況を見かねて、多くの人がボランティアで手伝ってくれるようになりました。とにかく軍資金が足りないだろう、兵糧を送ってやろうとカンパをしてくださる人も増えています。

 もちろん、最初からこのような支援をあてにしていたわけではありません。ある時期以降、いろいろな人から「銀行口座を教えろ」と言われるようになりました。要するに、カンパをしたいという申し出です。はじめはとまどいましたが、税理士に相談して、口座を開設。今はそのカンパのお金を運営費などに使わせてもらっています。

 今後も、このような「人の志」に頼る場面はあるでしょう。なぜなら、現在すべて無料で公開している情報をもし有料化し、会員だけのものにしたとしたら、とたんに情報は届かなくなると思うからです。インターネットは、基本的に情報を「無料」で得られる世界です。たとえ有料の会員システムをつくったとしても、必ず情報はコピペされ外に出ていきます。「ここはあなただけが見られるお得情報」という枠をつくったとしても、情報を独占し続けることはできません。基本的に情報は無料で配信せざるを得ないのです。これはたいへん悩ましい問題であり、同時にこれを克服できなければ、次世代のメディアは成り立っていかないと考えています。

 一般的に市場では、モノが一定のお金に交換され、売り買いされます。情報もモノと同様に売買され得ると考えられ、マスコミは「商品」としての情報を市場に提供し続けてきました。けれどもネットでは、こういうモデルは成立しえないのではないでしょうか。成立しないと断じるのは言い過ぎだとしても、対価の支払い、つまり決済が済むと同時に情報の送り手(売り手)と受け手(買い手)の関係が清算されるようなシステムが、情報の取り引きの形態の全てではなくなると思います。もし情報の市場が今後、成立するとすれば、「共感」や「支持」、「彼らの活動を支えようという思い」によって、支えられるシステムではないでしょうか。いつも有益な情報を提供してくれるあの人たちの活動を支えよう、支援しようと、お金が支払われるような形です。「支援しようというサポーターと、それによって支えられる自分たち」というモデルでない限り、関係の成立は難しいのではないかと考えています。

 では、共感者を集めるために重要なものは何か? それは、情報の「質」です。マスコミ業者の中には、情報という「商品」は、非常にセンセーショナルなもの、ショッキングなもので、刺激的なものを次から次へと出さないと読者や視聴者から飽きられる、支持されない、という考えに取りつかれている人たちも少なくありません。しかし、このような「とにかく売ろう」とする情報の届け方は(なくなるとは思いませんが)、今後は主流ではなくなっていくでしょう。それよりも、ありのままの一次情報を、まずは丸々届け、共感とともに、相互に情報を交換してゆくというやり方が支持されていくかもしれません。

 私たちが行っていることは、情報の送り手と受け手、売り手と買い手の関係性を巡るある意味での実験のようなものです。支持されてゆくかどうか、やってみなければわからない。だが、試みるだけの価値はある、そう考えています。

誰もが情報を発信できる時代の到来

 先ほど、6月11日の「脱原発100万人アクション」の話をさせていただきましたが、学生の方などに「その週末のいちばん大きな話題は何か?」と聞けば、若い人の多くは「当然、AKBの総選挙でしょ?」と答えることでしょう。当然です。いつの時代も、若い女性アイドルは、最も魅力的で強力な「情報商品」です。それに加えて、脱原発デモはマスメディアがほとんど伝えないが、AKBは様々な商業メディアが取り上げ、話題にしている。比べようもありません。

 結局のところ、現状では既存メディアと我々では勝負にならない。圧倒的に既存のマスメディアの方が強いのです。これを流通に例えるなら、既存メディアはイオンなどの巨大な流通網をもつ企業であり、それに対して、我々は横丁のタバコ屋さんのような存在です。そのタバコ屋が、イオンや三越、伊勢丹などの巨大流通網に挑んでも、もともと太刀打ちできるはずはありません。

 ソーシャルメディアで情報を共有している人の中には、「ネットを見ない人にどう情報を伝えたらいいのか」と嘆く人がよくいます。だが、嘆くことはない。これまでを振り返ってみてください。現在は、インターネットが発達していることもあり、ユーストリームなどを使って情報を発信できますが、マスメディアに乗らない情報を一般市民が発信する方法は、少し前までは、ビラをまいたり、ミニコミ誌を作ったりするくらいしか、情報発信の手段がありませんでした。

 インターネットのない世界を想像してみてください。その世界で、私が何かを人に伝えようと頑張ったとしても、いったい何人の人に伝えることができるでしょうか? ビラをまいたりしても、100人、200人くらいか……もっと少ないかもしれません。しかも、瞬時に、リアルタイムで、毎日続ける、なんて芸当はできません。この明治大学駿河台キャンパス近辺でチラシを配っても、新宿には届きませんし、錦糸町にも届きません。ましてや、大阪にも、札幌にも、九州にも届かない。世界に届けるなんて、もちろん不可能です。それが、ついこの前までの状況です。

 今までは、既存のマスメディアに圧倒的なアドバンテージがあって、それに対抗する手段がようやく見つかったという段階です。ユーストリームやツイッター、その他のソーシャルメディアは、今まさに始まったばかりで、これまで一般市民が自由に発信できる有力な手段を持たなかった状況が一気に変わるわけではありません。けれども、非常に急速な勢いで変わりつつあるとも思っています。

 私たちがやっていることはとてもささやかなものですし、現状のままでは既存のマスメディアの資本や人員、機材に対抗できるはずがありません。さらに、排他的で特権的な記者クラブ制度を見ればわかるように、制度上の優位性においても既存のマスメディアが圧倒的に上。こうしたマスメディアに比べれば、私たちは豆粒みたいな存在です。ただし、その豆粒みたいな我々が発信した情報も、多くの人に届けることができる時代がやってきたのです。

 私たちがやっていることはとてもささやかなものと言いましたが、これはつまりやろうと思えば誰でもできるということでもあります。インターネットが発達した現在では、それぞれが情報を広く、遠くへ発信することができる。ちょっと大げさになりますが、このことが革命的な変化の可能性を秘めていると、私は思っています。

ソーシャルメディアの最終形とは?

 これからも、どんどんソーシャルメディアのサービス形態は変わっていくことでしょう。私には技術的な見通しはわかりませんが、いろいろな人たちがさまざまな新しいサービスを考え出していくことと思います。

 この流れのなかでも、私たちがやるべきことはそう変わりません。次々と現れるサービスを使い、トライしてみて、「使い勝手がいい」「こういう特性を持っている」ということを見極めながら、情報を発信していく。これを続けていくだけです。

 私は、十代の頃からジャーナリスト志望でしたが、新聞記者になろうと思ったことは一度もありませんでした。新聞は中学生くらいの頃から読み続けてきましたが、雑誌の編集者になりたいと思っても、新聞記者になりたいとは一度も思わなかった。自由であろうとすることには、勇気がいることで、時に励ましを必要とします。長年、新聞を読んできて、自由への制約はいつも感じますが、自由への励ましを受けたと感じることはほとんどない。

 対照的に、私が自由へのはげましを受けていたのは、書籍や雑誌など、出版ジャーナリズムからでした。実際、出版ジャーナリズムは、今も昔も、記者クラブ制度の外にあります。大学を卒業後、私は小さな出版社に入りました。当時の出版界というのは、窒息するような退屈なマーケディングに支配される前だったからでしょう、自由なところでした。発想や企画の生き生きとした自由、斬新さが、まだまだ生きていました。今はかなり違うものになってしまいましたが、出版の世界、出版のジャーナリズムに関しては、雑誌でも単行本でも、たった一冊で情報の世界を変え得るインパクトを持っていた。ここに大きな魅力を感じて、出版社の編集者になったのです。大変楽しく充実したスタートを切ることができたと思います。その後も、週刊誌の世界で記者を続け、フリーになったのは27歳のときでした。

 当時からいつも思っていたのは、既存メディア、まるで官僚体制のようになってしまったメディアには、「伝えること」と「伝えないこと」があるということ。さらに、その「伝えないこと」の中に、非常に大切なものがあるということを肌で感じていました。だからこそ、既存のメディアが伝えないことでも、機会があれば拾い上げよう、届けていこうと考えていたのです。それこそジャーナリズムの原点ではないかと思います。

 ジャーナリズムとは、人に何かを伝えようという意志であり、それを伝える作業の事です。インターネットが発達し、ソーシャルメディアの技術的な進歩が続いていけば、確かに作業の仕方は変わります。けれど、それはやり方が変わるだけであり、人に何かを伝えようという意志や目的や意義は変わるものではありません。

 現在は、多くの人に情報を発信できるメディアを、誰もが手にできるようになりました。これは、非常に革命的で、ものすごい武器だと思っています。今後も、こうしたソーシャルメディアの形態は変わっていきます。もし、武器が役に立たないものだったり、規制がかかってしまって役に立たなくなったり、つまらないものになってしまったら、そのときに考え直せばいい。

 ソーシャルメディアの最終形とか、完成形について聞かれることが時々ありますが、何であれ、最終ゴールというものは、この世に存在しません。世界は常に続いていて、私がこの世界に現れたときにも世界は続いていたし、私の命が終わったとしても続いていきます。世界が続くとは、世界が変化し続けるということです。私が今挑戦していることも、できる限りやり続けて、あとは誰かにバトンタッチすることになるでしょう。私たちは皆、世界の継ぎ手としていわば駅伝のランナーのようにタスキを誰かに渡していくことになります。次世代にどのようなタスキを渡すことになるのか。若い皆さんといっしょに走りながら、考えていきたと思います。

ツイッターは、情報を「発信し続ける」ことがポイント

 私は、最初は書籍の編集者をしていました。次に雑誌の記者になり、その後、フリーのライターとなって、テレビやラジオのコメンテーターをやったり、ドキュメンタリーをつくったり、講演を行ったりするようになりました。このように、一通りさまざまなメディアのなかで仕事をしてきましたし、顔と名前をそこそこ知られるようになりましたが、自分の仕事が確かに人に届き、誰かのためになっているという実感は意外に乏しかったものです。仕事をしているときは、いつも孤独を感じていました。読者から手紙が来たり、書評が新聞に載ったり、といったことはありましたが、その数は少ないものでした。

 テレビに出演し続けていると、「テレビ、いつも見ていますよ」ぐらいは言ってもらえます。でも、私の発言の内容を真剣に聞いている人はほとんどいません。内容についての真剣な質問などほとんど受けたことがありません。「今日はネクタイが黄色でしたね」というような反応はあります。テレビでは、その人の印象は伝わりますが、話の中身までは意外に伝わらないことが多いのだと知りました。

 ところが、ネットの世界では、非常に明確なリアクションが、それも即座にかえってきます。いずれも、しっかりと中身を読み、理解したうえでのリアクションです。ときには厳しい批判などもあります。レベルはさまざまで、お門違いの中傷や放言みたいなものもありますが、「なるほど」と感心し敬服するような意見を持っている人や、関連領域の補足情報を送ってくださる人もいます。とにかく反応が速い。この点が、ソーシャルメディアの発現による、一つ目の大きな変化だと思います。

 ソーシャルメディアのなかで、私が本格的に使い始めたのはツイッターです。このツイッターに関して、今でも間違っていなかったと思うのは、ツイッターは読むものというより、自分で発信するツールだという理解です。とにかく、暗闇に向かって球を投げ続けるように、自分で発信し続けました。そのうち、その球が誰かに届き、打ち返してきてくれる。そうやって広がっていくものだと思います。

 ソーシャルメディアの登場によって大きく変わったことの2つ目は、相手との距離がとても近くなったことです。最近では、本当に至るところで声をかけられるようになりました。コンビニへ行けば、床掃除をしている店員さんに「いつも見てますよ」と言われたりします。街角で、駅で、至る所で、「岩上さん、応援してますよ!」と声を掛けられ、握手を求められる。思いがけない場所で、思いがけない人に声をかけられるという機会は、テレビだけに出ていたころよりもずっと増えました。

 従来の媒体のなかでは、遠くまで情報を届けるためにはテレビが圧倒的に強かった。テレビは間違いなくマスコミの「王様」でした。ツイッターをしていると、「あの“とくダネ”に出ている岩上さんを見つけてフォローしました」という人がいるのはこのためです。テレビでまず知って、その後にツイッターでもフォローした、というパターンです。ところが、最近になって逆転現象が起き始めた。「ずいぶん前から岩上さんをフォローしていたけど、テレビに出ている人だと今日はじめて知った」という方が現れてきたのです。そういう人の数は増え続けています。ツイッターの方がテレビよりも遠くへ届き始めている。若い人の中ではそもそもテレビを持っていない人が増えています。テレビに対してまったく興味がないという人たちです。

 私は今のテレビの報道のあり方に対して、批判を表明したりしていますが、そうは言いながらも、私はテレビで育った「テレビっ子」世代です。テレビとの接点は十分あったのですが、つきあいは長く、ずいぶん楽しませてももらってきた。昔は仲が良かったが、今は辟易しているという状態なのです。ところが、今の若い人の中にはそもそもテレビを見ない方がたくさんいる。反発や批判をする以前に、受像機自体が手元にないのです。こうした人が今後もどんどん増えていくのかもしれません。

 他方で、今後PCを持つ人、スマートフォンを持つ人が減ってゆく、ということは、まず考えられません。PCもスマホも持たない、ネットに接続しない、という人がこれから先、未来において可能性がある、とは言いがたい。メディアとして、テレビや新聞には成長に限界があり、ネットにはまだまだ可能性が開かれています。

バーチャルがリアルを変える

 ツイッターなどのソーシャルメディアの三つ目の特徴は、リアルとバーチャルがとても深くかかわり合っている点です。両者が密接に関連することで、自然に多くの人と親しくなることができます。たとえば、フォロワーのみなさんは、私の日常を本当によく知っています。「昨日、何時に寝たでしょ?」とか、睡眠不足だから「早く寝て!」と言われることもあります。みなさん、私のツイートを見ながら、身近な存在に感じてくれていると思うのです。バーチャルで知り合った者同士が、オフ会のような形でリアルでも知り合うことができます。

 リアルとバーチャルが密接にかかわっているという意味では、九州地方のある主婦の方が、私のツイートやユーストリームなどを熱心に見てくださり、これまで一度も足を運んだことのなかった東京にまで来てくれて、先日の6月11日にはデモにも参加された、という実例があります。その方は、九州で生まれ育ち、地元で就職し、結婚して子供を産み、九州からほとんど外へ出たことがなかったのですが、ツイッターやユーストリームをきっかけに、他のいろいろなサイトの情報を見るようになり、行動までもが変わったのです。

 これまでは情報に対してすべて受け身だったとその方はおっしゃいます。テレビから与えられる情報、夫から与えられる情報、世の中が与える情報に、ただただ従うだけだったそうです。ところが、自分で情報を得るようになるうちに、自分の意志を持って、自分で判断してアクションを起こそうと考えるようになりました。その第一歩が、その人の場合は、東京へ出てきて、先日のデモに参加することだったのです。

 さらには、私を九州に呼んでくださり、講演やイベントも開催してくれました。会場には、ご主人や妹さん家族も連れてきてくれて、私はご主人とも親しくなれました。この方は、バーチャルな世界での情報をきっかけに、自分の意志で、自分の目と耳でさまざまな情報を確かめ、リアルの世界で判断して行動を起こしていくことを始められました。このような方が、全国各地で増えてきているという実感を私は持っています。まだまだ数は多くありませんが、気がつけば網の目のように広がっていって、いろんな人たちが、マスメディアが伝えない情報に目を向けて行動してゆく、という時代がもうすぐそこまで来ていると感じています。

ソーシャルメディアは、若者だけのものではない

 ユーストリームやツイッター、その他のソーシャルメディアは、若い世代の人ほど浸透していると思われがちです。しかし、これは間違いではないか、と思います。実際、私たちのサイトのユーザーは、年配の層がかなり多い。私たちのサイトを見にくるのは、ある程度、社会問題に理解や関心がある層の方々です。こうした方々は、年配の方でも、積極的にユーストリームやツイッター、その他のソーシャルメディアにも関わっています。

 現在の若年層は、かつての若者ほど、社会問題に対して関心がありません。メディア・リテラシーというよりも、社会全体へのリテラシー能力があまり高くはないと思います。私は、今の若者たちを決して責めているわけではありません。私も、子どもを育ててきた親だからわかりますが、今の若い人たちは、勉強しなければならないこと、知らなければならないことが多すぎて、社会問題にまで手が届かないのです。それは必ずしも悪いことではないでしょう。10代後半から20代前半で性急に、社会全体に対して生煮えの理解をするよりは、ゆっくりと少しずつ関心を持ちながら、社会を理解していくこと。自分にはまだ知らないことがあると思いながら、常に関心を持ち続けていくこと。こうした晩成につながる姿勢の方が大事ではないでしょうか。そういう点では、年配の人の方が逆に、関心が高いのは、むしろ自然なことと思われます。

 逆に、シニア層、いわゆる団塊の世代でも、一部の方はネットに習熟しています。結局、若い人はネットに習熟、シニアはネットに弱い、というステロタイプは必ずしも正しくない、ということです。どの世代の中にも、新しい知識を貪欲に得ようとする人はいます。一方で、関心を持たない人もいます。だからといって、無理に強いる必要はありません。ソーシャルメディアやインターネットを見たくない人に、「見ろ、見ろ」と言う必要はないと思います。「身近な人間がネットをまったく見ない。テレビが垂れ流す情報を真に受けている。どうしたらいいか」という質問をしばしば受けますが、力づくでそのディバイドを埋める必要はないと思います。「これ面白いですよ」と勧めるのはいいですが、数回勧めて、それでも興味が持てないのであれば、放っておくのがいいと思います。ネットやソーシャルメディアを使わなければダメだということはありませんし、みなが均一になる必要性もないと思います。

 一方で、確かに、若い世代の方が、スマホなり、PCなり、機器の扱いに慣れているのも事実です。ただし、機器を扱えることが重要なのではなく、その機器を使ってどんな情報を得て、何を発信していけるかが重要です。情報を取捨選択し何かを学んでいくということは、昔も今も変わりません。その手段が本であったり、現代ではPCやスマホなどのデジタル機器であったりする、というだけです。

 デジタル機器の習熟ということに関しては、上の年代の方が確かに不得意です。では、どうすればいいのか? 私は、あらゆる年代の人、いろいろな立場の人々が手を携えて、お互いに足りないところを補い合い、教育し合うということができればいいと思っています。それもできる限り、違うカテゴリーにいる人たちが、協力し合うことが大切です。

 実際に、そうした動きが生まれつつあります。たとえば、地域で何かをやっていこうという集まりがあったとします。そこで若い人は技術を提供する。もう少し上の年代の人は、お金に少し余裕があるから機材を揃えてあげる。さらに上の人は、また違うことで貢献する。というように、それぞれの年代の得意分野を組み合わせて活動している集まりが生まれています。今回の「脱原発100万人アクション」でも、こうした動きがたくさんありました。

気軽に情報発信できる環境が必要

 情報の「受信者」から「発信者」になるには、ちょっとしたきっかけがあれば十分です。何度も言いますが年齢は関係ありません。いくつであろうと、発信を始めようという意志さえあれば、遅いということはありません。

 自分自身何かを表現しようとしている人は美しいし、面白いし、魅力的です。ネットの世界では、年齢が書かれていなければ何歳だということはわかりません。つまり、年代によるコミュニケーションの壁が取り払われるのです。そうした制約が取り払われることで、大きな可能性が広がっていくことでしょう。

兼業ジャーナリストのすすめ

 私は折にふれて、「兼業ジャーナリスト」になることを推奨しています。

 たとえば、私たちの東電の会見などのユーストリームをご覧になっている方にはおなじみだと思いますが、日隅一雄さんという方がいます。今は、がんにかかり、闘病中ですが、東電の会見では熱心に追及の質問をされていました。日隅さんの本業は弁護士ですが、同時に「NPJ」という市民メディアを立ち上げられていて、その編集長も務められています。

 日隅さんは、まさに理想的な兼業ジャーナリストです。これまでのジャーナリズムの世界は、「専業」のジャーナリストが担ってきました。しかし、なぜ専業である必要があるのか? マルチスタンスでいいじゃないか!と、言いたい。なぜ、別の仕事を持ちながら、片方で情報発信をやってはいけないのか? ジャーナリストも兼業でよいのではないかと思うのです。

 実際には、記者クラブの制度を含めて、情報の発信は特権的な存在のみに許されているがごとく、ごく一部の人間に占有され、独占されています。これは非常におかしなことです。すべての国民に「知る権利」、即ち情報を受信する権利が等しく認められているように、情報を「伝える権利」、情報の発信権も、認められるべきです。どんな世界にも、膨大な数のアマチュアがいて、そのうえに兼業のセミプロがいて、頂点にそれだけで食べているトッププロが存在しています。こうした状態が健全ではないかと思うのです。

 また別の観点から言うと、たとえば東電の会見で質問をする際には、にわか仕立てで勉強した記者よりも、原子力関係あるいはプラント関係の仕事に就いた経験のある人が、兼業ジャーナリストとして質問したほうが、より具体的な質問ができることでしょう。技術的なことも追及していけるはずです。

 これはあらゆる分野に言えることです。法務省の会見で質問をするのは、法務省の記者なんかよりも、普段は弁護士である兼業ジャーナリストが行った方がいいのではないかと思うのです。

 私の言っていることは、ただの空想、空論に感じるかもしれませんが、そうではありません。今の既存メディアがおかしくなってしまったのは、専業ジャーナリストだけが「報道」を担ってきたからであり、専門の機関のみが情報の発信を担うのだ、とされてきたからです。たとえば、マスコミの偏向報道について、どこかの新聞記者と議論になったとします。あなたの社の方針はおかしいではないか、と言ったときに、最後の最後に返ってくるセリフは、「そうはいっても、我々も生活がありますから」というセリフです。現在の既存メディアの問題は、この一言に尽きます。つまり、専業のジャーナリストは、生活のすべてをマスコミ産業に依存しています。新聞記者なら新聞社に依存しているわけです。ジャーナリストのすべてが所属組織に支配されてしまっているなら、その組織全体を上から牛耳ってしまえば、たとえばスポンサーによってコントロールされてしまえば、もう誰も何も言えなくなってしまいます。

 ところが、兼業ジャーナリストのように生活の基盤を別に持っていれば、不利益を被ることがあっても、あるいはまったく利益にならない場合であっても、伝えなくてはいけないことを思い切って伝えようと思うことができます。つまり、経済的に一方的に依存していなければ、自立して、もう少し自由に報道できるのです。ジャーナリズムの世界には、もっと自立した存在が必要です。経済的にも精神的にも自立した人たちがたくさん現れ、横で連携できる状態が、社会全体にとって好ましい状況だと思います。

 ピラミッド型の組織で、すべてをその組織に依存してしまっている記者しかいない状態では、上からの命令には必ず従うことになってしまいます。これは不幸な状態です。その記者も不幸ですし、そのピラミッド型の組織が伝える情報によって、影響を受けてしまう国民はさらに不幸です。

 大切なことは、他に立場を確立し、自信を持つことだと思います。他の知識を持っていること、他の財政的な基盤を持っていることは、とても重要なことです。アマチュアだって、兼業だって何だっていいではないですか。お金を稼ぐことが何よりも大切なのではなく、非営利でもいいから伝えるべきことを発信できることのほうが価値のあることだと思います。

 たとえば、吉本興業の「おしどり」さんという夫婦の漫才コンビも、東電の記者会見に積極的に参加し、その模様をブログで公開しています。彼らは、確かにこれまでジャーナリズムの訓練を受けていないかもしれません。けれども、取材のために現場に行き、一生懸命に手を挙げ、失敗をしながらも質問を続け、伝えようと努力しています。その様子を見ていると、ものすごい勢いで成長していると感じます。

 おしどりさんは、いわば芸人兼業ジャーナリストだと思います。既存のメディアに所属して、「私は記者です」「ジャーナリストです」と言っている人たちよりも、ずっと価値のある存在だと私は思います。このような兼業ジャーナリストや市民ジャーナリスト、市民メディアなど、多様なジャーナリストが、今後きっと増えていくことでしょう。

経験をプラスに変えるのは自分次第

 ここまで読んでいただき、これからジャーナリストを志す方は、どうすればいいのか……と悩まれているかもしれません。大学卒業と同時にフリーのジャーナリストになるのがいいのか、私が提案するような兼業ジャーナリストがいいのか、既存の大手メディアに就職するのがいいのか、さらにはそこからフリーになるのがいいのか。

 結論からいえば、私はどの方法でもいいと思います。大手メディアに入って、経験を積むのも一つの手でしょう。実際にそこでの仕事を経験しスキルを身につけるだけでなく、負の側面も見て、「このままでいいのか」と真剣に悩むのもいいことですし、「岩上はああ言っているけど、ちゃんと働いている人もいるな」と気づくこともあるかと思います。

 確かに、プロのメディア、プロのジャーナリズムの現場では、猛烈な労働を強いられますから、仕事のノウハウを学び、自分を鍛える上でも役立つはずです。実際に、ジャーナリズムの現場では、限られた時間の中で、多くの無理をして膨大な情報を処理しています。心身を壊さない限り、そういった経験も無駄にはなりません。現場で鍛えられた経験のある人は、頑張り方が違います。

 このように鍛えられてきた経験がプラスに出る人もいるでしょう。しかし、マイナスに出てしまう人もいます。たとえば、大手メディアに在籍している時代にどうしようもない癖が身についてしまって、フリーになってもふんぞり返るのが当たり前だと思っている人物もいます。たいした仕事もしていないのに高給を取れると思っている記者や、情報を得るにも一から苦労して取るのではなく、何もしなくてもだれかが用意してくれて、それを少し変える作業をしただけで記事を書いた気になっている記者クラブの記者がごろごろといます。それにもう慣れてしまって、フリーになった途端、自分では何もできないという記者が本当に多いのです。

 とはいえ、社会人としてさまざまな体験をするということは、どんな体験であれ意味のあることだと思います。新聞社にいる体験、出版社にいる体験、フリーとして働いた体験も、すべて意味がある。メディアに関わらない、まったく別の業種、仕事、会社で働く経験にも意味があると思います。あるいは、働きたいのに思うように働けないという体験もあることでしょう。親の介護や子育てのため、仕事を一時的にセーブしなくてはならないことも長い人生ではあることです。私にもそんな時期がありました。

 どんな体験でも、そこからプラスの価値を引き出すのか、マイナスの方向に転がってしまうのかは、その人次第です。どんなことでも自分のプラスに転化させる強い気持ちさえあれば、何でも糧になる。どこにいても、素晴らしい経験を積むことができると思います。

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