「情報の民主化」を目指して〜”中継市民”に支えられた3.11報道 (『自由報道協会が追った3.11』より) 2011.10.4

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市民が生中継した「100万人アクション」

 東日本大震災から3か月後の6月11日、全国で脱原発を求める抗議行動「6.11脱原発100万人アクション」が開催された。全国100か所でデモや集会、パレード、シンポジウムなどさまざまな催しを行い、100万人を動員しようという目標を揚げたこの同時多発的アクションは、中央司令部のようなものがあったわけではなく、組織だって行われたわけでもない。全国各地で自発的生まれたバラバラの脱原発アクションを、サイト上でつなげていこうという試みだった。こうした「脱中心化」されたアクションが同時に行われると知った時、最初に脳裏に浮かんだのは、こうした一連の動きをマスコミは正確には伝えないだろう、ということだった。

 無視するか、あるいは矮小化して伝えるか。実際、3月11日の震災以降、あちらこちらで脱原発を求めるアクションが増えつつあったのだが、既存メディアは無視し続け、ほとんど報道しようとしなかった。東電本店の前では、連日若者たちが押しかけ、抗議行動を行っていたが、新聞記者やテレビカメラクルーは、ほとんど本店の外へ出ていかなかった。3月、4月ごろは、東電本店の社屋内に300人くらいのマスコミ関係者がすし詰めになっていたというのに、である。外へ出て、東電前抗議行動を中継し続けたのは、我々IWJと、ごく一部のフリーランスや独立系メディアに限られていた。

 伝えられない出来事は、記録に残らない。その結果、存在しなかったことにされかねない。危機感を募らせていた私たちは、「国民の声を可視化する」というスローガンを掲げて、全国の同時多発的なアクションを、可能な限り中継することにした。IWJと、OurPlanet-TVが組み、オペレーション・コドモタチなどの協力を得て「『6.11脱原発100万人アクション』完全ライブ中継プロジェクト」がスタートした。

 この時、各地のデモやパレードを中継してもらうために、私がツイッターを通じてフォロワーの皆さんに、中継の協力を呼びかけたところ、200人くらいの中継市民ボランティアが協力を申し出てくれた。当日、中継をトライしたのは70か所。実際に中継に成功したのは55か所。6.11当日は新宿の貸しビルの一室をスタジオにして、全国各地の中継をつなぎつつ、ゲストとのトークも交えて10時間ぶっ通しの生中継を行った。

“情報の民主化”の主体は発信する市民

 私たちはライブストリーミングを行う市民ボランティアのことを「中継市民」と呼んでいる。聞き慣れない言葉だと思うが、これは私の造語である。このネーミングの根底にある、「情報の民主化」の主体は個々の市井の人びとなのだ、という考えについて説明が必要であろう。

 少し脱線するが、ネット時代における情報の交換、価値、市場における売買の限界について話しておきたい。

 今まで私たちは、情報というものは「商品」として、モノのように売り買いできるものだと思い込んできた。だが、ネット時代に突入してから、情報は、検索さえすれば無料でいくらでも手に入る時代になり、こうした思い込みは自明のものではなくなりつつある。

 「商品」として情報が売買されるためには、前提として対価を払って購入した者だけに「独占的な所有」が可能でなければならない。だが、無料でネット上に情報が拡散しているというのに、情報の入手に際してわざわざ対価を払おうという積極的な動機はなかなか見出しにくい。

 情報に「価値」がなくなったのではない。そうではなくて要するに、ただ「価格」がつかなくなったのだ。これは空気や水に喩えるとわかりやすい。我々にとって価値あるものではあるけれど、どこにでも偏在しているので、誰も対価を支払おうとはしないのだ。同時に「独占的所有」もできない。できるのは「共有」なのである。

 ネット時代の到来は、情報の「売買」によって利益をあげていたこれまでの情報産業とその従事者にとって、発想の根本的な転換を迫る試練の時代の到来なのである。

 近代に成立したマスメディアを特徴づけるものは、少数の大資本による寡占支配であり、情報の送り手と受けての極端な分離である。一般市民はあくまで情報の受け手(読者、視聴者)にすぎず、送り手は専業のメディア産業従事者に限られてきた。「プロの記者」でない限り、記者会見への出席も許されないし、情報を送る資格もないかのように、我々は刷り込まれてきた。

 一つの資本が、新聞とテレビを合わせ持つクロスオーナーシップ制度のもと、独占的•排他的な記者クラブというカルテルの存在による情報の統制を、長年、我々は疑うことなく受け入れさせられてきたのである。

 しかし、本来、情報を発信する権利は、情報を「知る権利」と並んで、個々人の生得的な権利のはずである。「情報の民主化」を突き詰めていけば、情報を得る機会と同時に、発信する機会が、誰に対してもフェアに開かれているのが望ましい。

 そうした「情報の民主化」の理念を、インターネット、とりわけソーシャルメディアは一部実現しつつある。誰もが情報の発信機会と手段を持てるようになり、社会の「特権的な中心点」からだけではなく、あらゆる場所から、情報の発信が現実に行われつつある。

 情報全体のコストは低減し、「マス」に向けての「メジャー」で均一な情報以外は「売り物にならない」として足切りされてきたマイナーな情報も、発信、受信が可能になってきた。これはとても重要な変化だ。

 今はスマートフォン一つあれば、誰でもネット中継できる時代だ。広く伝えるべき事件や出来事はいたるところに転がっている。地元自治体の長の記者会見も中継されることが望ましい。それを中継する市民が増えれば、それぞれが現場で見たこと聞いたことを発信し、受信し、いろいろな情報や見解が交差しあう過程で、誤謬が正され、社会にとって適正な解に近づいていく可能性が高まる―。そんな「情報の民主化」の理想に一歩近づく。

24時間中継をしつつ被災地を飛びまわる

 東日本大震災の発災直後から、IWJは東京電力、経済産業省、原子力安全•保安院などの記者会見を24時間フォローし続けた。

 地震の直後は、通信が途絶え、交通機関が完全に麻痺した。事務所の女性スタッフは地方に避難したり、自宅で待機したりしたため、事務機能は完全にストップした。コンビニの陳列棚から食べ物がことごとく消え、ガソリンもろくに手に入らない状況のなか、家にもろくに帰れないまま、私と、原佑介君と佐々木隼也君という2人の若いスタッフの3人のみで、前線に張り付き続けた。

 地震の翌日の12日午後1時には、保安院前から「浜岡原発を止めろ!」と求める抗議行動も中継し、午後3時すぎに福島第一原発1号機が爆発した12時間後には、元東芝の原子炉容器設計者•後藤政志氏の初めての実名での会見を、原子力資料情報室から中継した。今考えると、よくあの場所までたどり着けたなと思う。移動手段は車に頼るしかなく、ガソリンを調達するのに半日、スタンンドを回らなくてはならなかった。

 ともあれ、絶対的に人手が足りない。そこで、13日にはツイッターで「多元Ust中継するための人手が、不足しています。機材と技術があり、一応の経験のある方、ご助力ください。ご連絡をお願いします」と書いたところ、翌日から次々と腕に覚えのある若者たちが集まってきた。そらのさん、ヒマナイヌ川井拓也さん、UstTodayの三上洋さん、あやのさん、蛯原天さん、フリーのカメラマンの石崎君、北本剛さん―その中には、後日IWJの正式スタッフとして定着した、古田晃司君や安川慎也君もいた。この時名乗りをあげてくれた中継ボランティアのみなさんは、私にとってまさしく「戦友」である。

 彼らの助太刀を得て、東電、保安院、経産省の記者会見に張り付きながら、17日には官邸につめ寄っていた社民党の福島みずほ氏にインタビューを行い、20日には東北へ。一部しか運行していなかった東北新幹線で那須塩原まで行き、そこからさらにレンタカーに乗って郡山市に入った。プルサーマルの導入に反対していた佐藤栄作久前知事のご自宅で、余震に見舞われながらインタビュー。原発事故から命からがら避難してきた大熊町や川内村からの避難民の方々への取材も行った。

 事務所機能を回復させるまで3月いっぱいかかった。小さなお子さんのいる女性スタッフの中には、西日本に疎開した人もいた。子どもの命や健康が最優先なのは当然である。とはいえ、事務所が空白になってはチームとして機能しない。そのころの私は、サッカーに喩えればフォワードに張り付きながら、中盤もバックスもゴールキーパーもいない状況をカバーするため、激しく上り下りを繰り返し、チームリーダーや監督、オーナーとしての仕事もこなす、というめまぐるしさだった。

 経理•会計を担当してくれる方を新たにお願いし、事務スタッフの陣容も次第に整ってきたのは4月の半ばくらいのこと。その間も、ヒット&アウェイを続け、4月1日には、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏のインタビューのために大阪府の熊取町へ足を運んだ。被災地へも福島県だけでなく、水戸市までの常磐線すら開通していなかった茨城県、宮城県、岩手県、青森県もすべて回った。また、散発的に始まっていた都内の脱原発のデモもほとんどを中継し続けた。

やり残した原発取材への後悔

 あの地震の直後から、なぜスピーディに原発の問題を集中的に取材しえたのかという質問をしばしば受ける。たしかに原発についてまったく無知•無関心だったら、これほどに瞬発力を発揮して動くことはできなかったかもしれない。私が最初に原発についての問題意識をもったのは、今から四半世紀前近くにさかのぼる。宝島社ブックレット『北陸が日本地図から消える日』に「能登原発“闇の開発史”」という記事を書いたのは1988年のことである。そのころから、核燃料サイクルの危険性や不採算性について理解はしていたつもりだった。何よりも、原子力発電を推進する体制が、政治家、官僚、財界、メディア、そして各地方•地域の権力に絡みあう、透明性を欠いた非民主的な体制であることに危惧の念を抱かずにはいられなかった。

 だが、私はそれ以降、このテーマを掘り下げる機会がなく、他のテーマに移行していってしまった。結果として原子力発電の危険性に警鐘を鳴らし続けることができなかった。「やり残したことがある」という思いが、心の中にずっとひっかかっていた。

 IWJを立ち上げた昨年12月から、私は四半世紀ぶりに原発のテーマを追い始めていた。山口県の上関原発建設問題である。2月19日に上関原子力発電所建設予定地の対岸にある山口県の祝島でおこなわれたハンストを中継し、2月21日に中部電力が強行した上関原発建設予定地での埋め立て作業に対する抗議行動を中継した。さらに上関原発について取材しようとしていた矢先に起きたのが3月11日の震災だった。まさにあの日の夕方の新幹線で、私は山口県へ取材に向かう段取りになっていたのである。

 原発報道について、「やり残したことがある」という私なりの思いがあったからこそ、目前で起きたこの事態に、全力で取り組もうとしたのだと、今にして思う。

ネット中継で可能になった“情報の産直”

 私がユーストリーム中継を始めたのは、2010年5月からだ。その年の2月に、東京地検特捜部によって強制捜査を受けた小沢一郎民主党幹事長(当時)の記者会見が行われた。この時は自由報道協会のメンバーでもある畠山理仁さんが最前列の席を「岩上さん、質問してください」と言って譲ってくれて、フリーで私だけが質問できた。畠山さんは私のビデオも持って撮影してくれて、もう一方の手でアイフォンによるユーストリーム中継を行った。この日は、フリーランスが記者会見を生中継した歴史的な記念日となった。

 アイフォン一つで簡単に生中継ができることに驚いた私は、ライブストリーミングの持つパワーと有効性をまざまざと思い知った。これならば、「ニュースの産直」が可能になるかもしれない。直感的にそう思った。ニュースの大手流通業者であるマスコミを「中抜き」して、加工されないフレッシュな一次情報を届けることにより、一般の人々が自ら情報を選択し、編集していくことが可能となるのではないか。同じ映像でも、ビデオではまだ編集•加工の余地があるが、ライブストリーミングの場合、その余地がない。ありのままの一次情報を人々に届けることができる。それによって、言うなれば「情報の直接民主主義」が、現実のものとなるのではないか。

独立系メディアであることの意味

 最後にIWJという組織の名称について説明したい。これは「INDEPENDENT WEB JOURNAL」の頭文字を取ったものだ。私は学生時代から独立した新たなメディアをつくりたいと願っていた。新聞•テレビなどの大手メディアの入社試験を受験せず、情報センター出版局という小さな出版社に入社したのは、そのためだ。最終的には出版社を興すというのが、当時の私の夢だった。書き手ではなく、編集者でありたいと思っていた。私一人の、表現者としての才能などたかが知れている。それよりもいろいろな情報や見識や経験を持っている人々に出会い、まだ見ぬ才能の表現の場をつくるほうが向いていると思ったからだ。

 その後、単行本の編集者、雑誌記者を経て、フリーのジャーナリストとして仕事を積み重ね、コメンテーターとしてテレビやラジオの仕事を経験してきたわけだが、今、ネットに軸足を置くようになり、これまでの様々なメディアでの経験が役立っている、と感じている。

 ネットというのは総合格闘技みたいなもので、映像、音声、テキストと、いろいろな表現が可能である。自分の見解を自由に表明するだけでなく、多様な人々の才能を生かしながらさまざまな情報を編集していく編集者的な能力も求められる。それは本来私が得意とするところで、少なくとも最もストレスなくできることでもある。デジタル技術には決して明るくない、私のようなアナログな人間でも、やれることはたくさんある。

 今、私は、52歳にして、とてもやりがいのある、新しいことをやり始めているという自覚がある。ただ、有料会員制のシステムの構築が遅れているので、一方的にカネが出ていくのが頭痛のタネではある。

 今までのところ、IWJは情報を無料で発信し続けている、その運営資金は、私の持ち出しでまかなってきた。このままでは、早晩行き詰まるので、私たちの活動に共感してくださる方々に寄付をお願いしている。

 寄付の呼びかけについては、実を言うと、最初は私から呼びかけたのではない。そもそも長年、商業メディアの中で生きてきた私に、「寄付」とか「カンパ」という発想はまったくなかった。情報は「売買」しうるものだと思ってきたのだ。ところが、ツイッターで「無料でやっていけるつもりですか」と言ってくれる人がいて、さらに「銀行の口座を教えて下さい」と言われ、言葉の意味がわからず、そんな申し出をいくつもスルーした。「カンパしたい」という声が増えてきても、そんな申し出を受け入れていいのかと逡巡し、なかなか踏み出せなかった。

 今、NPOやNGOのような非営利の公益活動に共感したり、支援や協力をしたいと願ったり、さらには自ら参加し、活動しようとする人が増えていることを知ったのは、しばらく経ってからのことだった。

 ひたすら情報を集めて抱え込んで、カネに変えることに血道をあげ、視聴率や部数を追いかけてばかりの商業ジャーナリズムに多くの人が嫌気を感じているのだということも、改めて痛感した。個々の情報は、無料で手に入ってしまうようになり、情報に対して気前よく対価を支払う人は減ってきている。だが、公正な情報を届けようとする者への期待や共感から、支援は惜しまないという人たちも、少なからず存在する。

 寄付を受けたということは、大きな「借り」をつくったということでもある。「売買」はその場限りで関係が精算されるが、共感と期待を伴う「贈与」という「借り」は、簡単に決済も精算もできない。こうした期待を裏切らず、独立した、文字通りインディペンデントなメディアとして、IWJの活動を根づかせていきたい。それがいくばくかでも「借り」を返すことであり、多くの方々の期待と共感に報いることだと思っている。

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