ワールドカップが始まったそのさなか、ウクライナでは内戦が激化。イラクでも、シリアでも、内戦が激化。日本では、公明党が予想通り転んで、自公で集団的自衛権の限定容認が決定。自衛隊は、日本の防衛とは何の関係もない、世界中の戦場に派遣されることになるのだろう。
もしも、ワールドカップが戦争から目を背ける目くらましとして利用されている、としたら、一フットボールファンとして許しがたい、と思う。
フットボールは、戦争につながりかねない集団的な激情をはらみながら、手を使わず、直接的な身体的コンタクトを最小限しか認めず、徹底した規制をはめることで、闘争を文明化したスポーツだ。戦争に最も似ていながら、戦争から最も遠い表現を獲得した。だからこそ、我々は魅了されるのだ。
他者を暴力的に排除したい、暴力的に支配したい、暴力的に抹殺したい、という暗い欲望を人間は抱いている。忌まわしい戦争がなくならない理由である。他方で、闘争への衝動をフットボールという創造的な祝祭に昇華し得たのも人間である。
ワールドカップの期間中、地球はフットボールの惑星となる。うろ覚えだが、アメリカ大会の時には、ワールドカップのテレビ視聴者の延べ人数は、300億人を越えたという。しかし、この偉大なゲームに人類が夢中になっている間にも、血が流されている。いまいましいことに。
どんな戦時下でもフットボールの試合は行われてきた。第二次大戦における最大の激戦、レニングラード攻防戦下でも、試合が行われていたという。このレニングラード攻防戦でそれまで優勢だったナチス国防軍はソ連赤軍に敗退し、敗走。
ベルリン陥落まで目前に迫った1945年4月22日には、バイエルン・ミュンヘンが1860ミュンヘンを3ー2で破っている。第三帝国が滅びようとするまさにその時まで、ドイツ国民はフットボールに熱中していたのである。戦争とフットボールは共存してしまう、ともいえる。
いやそれだけではない、人間の行った最悪の蛮行であるホロコーストの現場でさえも、サッカーボールは転がり続けた。サイモン・クーパーは「ワールドカップメランコリー」に所収された「戦争からの避難所」という文章の中で、先に記した45年4月22日の試合の話のあと、こう記している。
「アウシュビッツでもテレジエンシュタットでも、ダッハウでもフットボールは行われていた。ダッハウの強制収容所では43年以降、大会まで開かれていた。44年春には収容者のチームが看守のチームを21ー0で破っている」。この事実をホロコーストリビジョニストが悪用しないことを願う。
戦争が、虐殺が行われている時に、フットボールは並存した。ボールは転がり続けた。いったいなぜ?とクーパーは問い、「マジック・マーシャル」とあだ名されたハンガリー代表のキャプテンでフォワード、フェレンツ・プスカシュの言葉を引く。
「フットボールは私を戦争から守ってくれた。フットボールにのめり込んだおかげで、戦争をまったく忘れられたこともある」。言い換えれば、フットボールは完璧な避難所だったのだ、とクーパーはプスカシュの言葉を補足する。
と同時に、心配なことがあるとすれば、と、クーパーは付け加えることを忘れない。僕たちは、「永遠の避難所」に住み、「永遠の休暇」を送っている。そして今のような時期には、それが不適切で子供っぽいことに感じられてしまう、と。
ワールドカップは、楽しもう、と思う。他方、その熱狂の裏側で同時に進む腐敗した政治の悪徳を、その最悪の帰結としての戦争や暴力の横行をも見逃さないようにしよう。ゲームには参加するが、ファウルは見逃さないのと同じ要領だ。お行儀良く傍観しているだけではなく、悪質なファウルには、ありったけのブーイングを浴びせよう。
戦争とフットボールは共存してしまう、と書いた。共存というより、並存だろうか。厄介なことだ。だが、見方を変えるなら、戦争はフットボールを愛好する人々の思いを根絶やしにはできない、ということでもある。そして、自制が求められるフットボールは、暴力そのものとは同時に共存はできない。