★告知!【IWJ追跡検証レポート】『九月、東京の路上で』~関東大震災・ジェノサイドの跡地を加藤直樹氏と歩く 2014.8.24

記事公開日:2014.8.24
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『九月、東京の路上で~1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』の著者、加藤直樹氏に岩上安身がインタビュー。2016年8月31日~9月2日 の19時~3夜連続、Ch1で配信します。関東大震災に際し、朝鮮人への虐殺が行われた東京各所でロケを敢行しました。ぜひ、ご覧ください。

■【IWJ追跡検証レポート】『九月、東京の路上で』~関東大震災・ジェノサイドの跡地を加藤直樹氏と歩く
[日時]2016年8月31日~9月2日の19時~ 3夜連続配信!
[配信]IWJ・Ch1

▲加藤直樹氏と岩上安身

※以下、2013年10月8日発行の「IWJウィークリー」19号の編集後記を再掲します。

 あっという間に秋が深まりつつあります。

 9月の話を10月に書くな、と叱られるのを覚悟の上で、90年前の9月1日の出来事を振り返りたいと思います。

 1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、マグニチュード7.9の大地震が関東の大地を襲いました。関東大震災です。その直後から流言飛語が飛び交い、朝鮮人が多数殺されるという、恐ろしい大惨事が起きました。この未曽有の大事件について、なぜかいまだに日本政府の公式の調査は行われていません。

 日弁連が行った近年の調査によると、殺された朝鮮人の数は約8千人にものぼります。この報告書の存在を教えてくれたのは「憲法鼎談」を重ねてきた梓澤和幸弁護士と澤藤統一郎弁護士でした。6月10日に行われた、第12回目の「憲法鼎談」の中で梓澤弁護士は、自民党憲法草案に沿って改憲が行なわれ、かつての戒厳令に相当する緊急事態宣言が可能になると、どういうことになるか、こう語りました。((再掲)「民主主義と人権の停止」 自民党改憲案について、澤藤・梓澤両弁護士が危機感を示す ~自民党の憲法改正案についての鼎談 第11弾 2013.6.10

梓澤「軍が権力を握った時に、どういう恐ろしいことになるか。日弁連で、関東大震災における朝鮮人・中国人虐殺事件の調査チームというのを、日弁連の理事会で決めて、その調査チームが報告書を作り、そして日弁連が国に対して、朝鮮人虐殺、中国人虐殺の責任を謝れ、といった報告書を出したんですね」

岩上「いつ頃の話ですか?」

梓澤「2003年8月25日。これは理事会を通った日弁連総意の報告書です(※)。そのなかで、これは本当に知られていないんですけれども、実は民衆虐殺だけが言われているけれども、実は軍がものすごい虐殺をやっているんですよね。

 それを軍の資料に基づいて、事実認定をしたんです。9月2日に戒厳が宣告されて、9月1日から9月4日にかけて」

澤藤「9月1日が震災」

梓澤「ですね。そして、一番大きなひどい虐殺は、9月3日。東京府大島町3丁目付近で、3名の兵士が朝鮮人を銃の台尻で殴打したことがきっかけで、群衆、警察官と闘争が起こり、朝鮮人200名が殺害された。

 これを始めとして、朝鮮人、中国人を数えると、軍が直接、銃器を用いて、あるいは刀を用いて殺した事例が7800名に及んでいるということが、この報告書のなかに書いてあります」

日弁連の報告書は、以下のリンクで読むことが可能です。

 この虐殺事件は、まごうかたなきテロの横行です。テロへの警戒とそのための治安強化の必要性をしきりに主張しながら、治安を統べる警察と戒厳令下で絶対的な権力を握る軍が、自らテロを行なったこの大事件を、日本政府が今なお、ふり返ろうとしていないのは、奇観という他ありません。この事件については、「朝鮮人が毒を井戸に投げ込もうとしている」などのデマが広がり、民間の自警団などを虐殺へと駆り立てていったことが知られています。そうしたデマどのようにして広まり、人々を狂気へと導いていったのか。その様子を知る手がかりが、私の手もとにあります。法務大臣や通産大臣や副総理を歴任し、自民党の総裁選に出馬した経験もある大物保守政治家・石井光次郎氏の自伝『回想八十八年』という本です。

 

 石井氏は、警察官僚出身(内務省)で、朝日新聞に中途入社し、専務にのぼりつめたあと政界に転出するのですが、朝日新聞時代に、関東大震災に遭遇した時の模様を、同書の中でこう記しています。

 「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎君が官房主事だった。

 『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけ、もらって来い。帝国ホテルからも、食い物と飲み物を、できるだけもらって来い』といいつけた。

 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』と頼まれたということであった。

 そこにちょうど、下村さんが居合わせた。『その話はどこから出たんだ』『警視庁の正力さんがいったのです』『それはおかしい』

 下村さんは、そんなことは絶対にあり得ないと断言した。『地震が九月一日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん』こういって、下村さんは、みんなを制止した」

 ここに登場する正力松太郎氏は、のちに読売新聞の社主となり、部数を飛躍的にのばした読売の「中興の祖」です。A級戦犯容疑者の一人であり、日本に原発を導入した立役者としても知られています。その正力松太郎氏が、警視庁の官房主事という立場で「朝鮮人が謀反を起こそうとしている、という噂をあちこちで触れまわってくれ」と、新聞記者たちを煽っていた、というのです。軍とともに警察も虐殺に加担していたという事実が、こうした証言によって裏書きされていきます。

 『回想八十八年』には、大震災と虐殺についての記事がさらにこう続きます。

 「九月二日の夕方家へ帰った。

 家に着くと、『朝鮮人が六郷川のほうに集結していて、今晩中に押しよせて来るから、みんな小学校へ集まれ』ということだった。私は、ちょっと様子を見て、また社に引っ返すつもりであったのに、大変なことになったと思った。家族を見殺しにするわけにもいかないから、社には秘書を使いにやって、『こういうわけだから、今晩は帰社できない」といっておいた。

 下村さんの話を聞いていたから、そんなことはありえないとは思っていたが、とにかくみんなを連れて、小学校に行った。小学校は、いっぱいの人であった。日が暮れてから、演説を始めた者がいた。『自分は陸軍中佐であります。戦いは、守るより攻めるほうが勝ちです。敵は六郷川に集まっているというから、われわれは義勇隊を組織して、突撃する体制をとりましょう』と叫んでいる。

 バカなことをいうやつだと思ったが、そこに集まった人びとも、特に動く気配もなかったから、私も黙っていた。

 そのうち、『井戸に毒を投げ込む朝鮮人がいる。そういう井戸には印がしてある』などという流言が入ってきた。あとで考えると、ウソッパチばかりだった。私は、趣旨としては下村さんのいうとおりだと思うけれど、警視庁もそういっているし、騎虎の勢いで、どうなるかわからないと懸念していた。夜明けまで小学校にいたが、何事もなく、ときどき、いじめられた朝鮮人が引きずられて行くだけだった」

 文中に登場する下村さんとは、台湾総督府総務長官を経て、朝日新聞に入社、専務、副社長を歴任した下村宏氏を指します。植民地の現実を熟知していた下村氏の言葉には説得力があった、と石井氏は語っているわけです。

 しかし、その石井氏も、流言について「ウソッパチばかりだった」と歯噛みしながらも、「いじめられた朝鮮人が引きずられて行く」のを横目に見るだけで拱手傍観しているだけなのが、悲しく、やりきれない気持ちにさせられます。

 戒厳令下、軍と警察とメディアが手を取り合い、群集心理に火を放った時には、それが「ウソッパチ」だと見ぬく慧眼の持ち主であっても、手も足も出せないのが現実なのだと思い知らされるからです。

 「民主化」のあとの反動期、巨大な震災、近づく戦争と軍国主義化、朝鮮人への蔑視とヘイトスピーチ…。当時と今日と、時代相がさまざまに重なり合うことに慄然とせざるをえません。

 深まりゆく秋。

 この秋の国会に「特定秘密保護法」案が上程されます。

 この秋の夜長に苦い史実を噛みしめて、目を覚ましてみる必要がありそうです。

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