立憲主義成立の原点、マグナ・カルタの精神から、安保法制反対の声を挙げる。
1.マグナ・カルタを成立させた歴史
Wikipedia マグナ・カルタ
成立経緯とその精神がよくわかるので、引用しておく。マグナ・カルタまたは大憲章はイングランド王国において1215年6月15日、ジョン王により制定された憲章でありイングランド国王の権限の制限をその内容とする。
ジョン王がフランス王フィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失ったにもかかわらず新たに戦を仕掛けて再び敗戦したために、1215年5月5日に貴族の怒りが爆発した。貴族側はジョン王の廃位を求めて結託し、ロンドン市が同調する事態になるとほとんどの貴族と国民は反ジョンでまとまってしまった。当時はこのように臣民の信頼を失った王は自ら退位するか処刑されるしかなく、その後新たな王が立てられるのが通常であったが、このときはジョン王は、王の権限を制限する文書に国王が承諾を与えることで事態の収拾を計ったことで制定された。
王といえどコモン・ローの下にあり、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限されることが文書で確認されたという意味が大きい。王の実体的権力を契約、法で縛り、権力の行使はデュー・プロセス・オブ・ローによることを要するといった点は現代に続く「法の支配」、保守主義、自由主義の原型となった。
以上引用
立憲主義の原点だが、なぜ生まれたかといえばジョン王がフランスに負けても、さらに戦争をしかけたからだ。つまり、立憲主義は、英国のマグナ・カルタのその最初の原点から、無駄で無謀な戦争の抑止と関係がある。日本の戦前のような状態を抑止するため、さらに、今現在の状勢のごとく、負けた王がリベンジで戦いを仕掛けようとするのを防ぐため、「貴族の怒りによって」だが、英国でマグナ・カルタが生まれた。これは、結果的には、王がみずからの地位を維持するための、戦争行為を中心にして、自己の権利を限定し、逆に、以下の具体的条文にみるように、王から制限されないような「自由人」の権利を認める方向になっている。一言でいえば、戦いに負けた王の権利の、国民による分有、確保である。おそらく、民主制の始まり、基本的人権は、一つには、王の傲慢な暴政を、敗戦を機に、制限してゆく中で生じたものなのではないかと思う。また、その制度の方が、より柔軟で安定した、国家としてのアウトプットを得ることができるだろう。要は、「3人寄れば文殊の知恵」であるが、これが国家として、絶対的に重要であり、制度的に確保されるべきであるとしたのが、マグナ・カルタではなかろうか。そのためにも、ある単独者が、各「文殊」の自由を制限してはならない、とする人権につながる項目も入る。これは、報道の自由でもあるし、学問の自由でもある。民主主義を、多数決による独裁と公言する政治家もいるが、日本で安易になされるこういった発言は、「立憲主義」の思想からはずれたものであることがわかる。そもそもの権力の限界に対する自覚と、選挙で負けた勢力の意見も、潜在的にでも尊重する意識がなくてはならない。
そして、実は、これは、科学的思考態度の原典でもありうる。マグナカルタでは、各「文殊」間で統一されるような尺度である度量衡の導入も提唱されている。基本的に、科学は、自説に対する限界の意識とともに、他者の見解や説を尊重する態度、一定のバックグラウンドで評価し、組み上げていく態度というものが、それが生まれる基盤になる。批判精神や、現場を観察しそれを受け入れ分析する精神が欠けるような、「独裁」や「王政」のエートスからは、科学的態度と、その成果は、決して生まれないのだ。
2.マグナ・カルタ以後の歴史
【Wikipedia引用】
国王と議会が対立するようになった17世紀になり再度注目されるようになった。マグナ・カルタ理念は、エドワード・コーク卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理「法の支配」としてまとめられた。清教徒革命の際には、革命の理由としてマグナ・カルタが使われた。また、アメリカ合衆国建国の理由にもマグナ・カルタが使われている。以上引用
ここで、日本会議や、それを、同床異夢ではあるが、裏からささえているような、米国のイラク戦争をも行うような勢力からの日本の独立建国、まあ、すぐはそうはいかなくても、一線をこえてしまわないための抵抗原理として憲法原理、マグナ・カルタが生きる。日本会議は、国家神道という「敗戦した王制」をリベンジさせようとしている勢力であり、これは、丁度、マグナ・カルタをなさしめた1200年代のジョン王の態度と重なっている。最近、安倍が「我が軍」発言をして批判が一時的に沸騰したが、この文脈から問題なのは、「軍」が違憲だという、いかにもお勉強的なシニフィアン問題からの答えではなく、「我が」軍という、「我が」の方が、比較などにならぬほど圧倒的に問題なのである。ジョン王が、自分のリベンジのために、貴族勢力から徴税徴兵をして、軍を私物化したこと、それに対する抵抗から、立憲主義というのはでてきている。安倍の「我が軍」発言は、それだけ、法の支配というものの本質をわきまえていない、極めて原始的な王の意識をしめす発言であったと思う。さらに、法解釈を国の慣習からどこまでも恣意的に解釈変更してゆく、議論など関係ないというのは、「王」の態度なわけだ。この原動力が、日本会議的なエートスと、さらにおそらく、米国の非公式王政のような政治体制とつながっている。米国のイラク戦争を遂行した勢力も、結局大義なき、虚言による誤った戦争をしでかした勢力である。今現在も目前で毎日展開されいてるが、こういうところが、マグナ・カルタという立憲主義のエートスが立ち上がった歴史的場所でもあるのだ。憲法原理と立国、暴政による勝手な侵略戦争とその制限というのは、深く結びついている。
マグナ・カルタを生んだ国としては、イラク戦争に加わったことは、痛恨の極みであっただろう。AIIB加盟第一声あげたのも、アメリカの産みの国でもあるイギリスだった。欧州の歴史に学ぶべきことは、まだまだあると思う。そうすると、特に若輩者の米国のなすことが、いかに外道に陥っているかわかる。そして、マグナカルタまでさかのぼることで、やっとBBCの独立性の気概、英国的な抑制的紳士性と自虐的ユーモア、けれども尊厳と粘り強さ、そして、米国圏からの独立運動ともいえるAIIB参加決定のエートスの統一性が理解できてくる。これが、立憲主義、つまり、王権の制限と法の支配の尊重の態度なのだ。
護憲派でも、改憲派でも、どちらも、このマグナカルタにつながるような、王権の制限を要するという立憲主義を成し遂げたエートスの場所から、声をださないと、少なくとも、それを理解していかないとまずいだろう。そうすることによって、その意識によって、官邸への抗議は、ある種の専横な、潜在的な王権への、歴史的な底流とつながる抗議となる。
【参考サイト】
・世界史の窓
マグナ・カルタの高校歴史レベルの解説とともに、具体的な条文が載っていて参考になる。第12条 いかなる軍役代納金(注1)も援助金(注2)も、わが王国の共同の助言(注3)によるのでなければ、わが王国では課せられてはならない。ただし、わが身代金払うため、わが長男を騎士とするため、およびわが長女をいつか嫁がせるための援助金は、この限りではない。・・・〔国王の課税権の制限、課税同意の原則〕
第30条 州長、朕の代官、その他の者は、運搬を行う目的で、自由人の馬または荷馬車を当該自由人の意志に反して徴発してはならない。〔自由人の権利〕
第31条 朕も朕の代官も、城その他の朕の用のため、他人の材木をその材木の属する者の意志に反して徴発してはならない。〔自由人の権利〕
第35条 朕の全王国を通じて、単一のぶどう酒の枡目、ならびに染色布、小豆色粗布おおびくさりかたびらの単一の幅が用いられるべきものとする。目方についても同様とする。〔度量衡の統一〕
第39条 いかなる自由人も彼の同輩の法に適った判決か国法によるのでなければ、逮捕あるいは投獄され、または所持物を奪われ、または追放され、または何らかの方法で侵害されてはならない。・・・〔自由人の権利、適法手続きの原則〕
第40条 朕は何びとに対しても正義と司法を売らず、何びとに対しても正義と司法を拒否または遅延せしめない。〔裁判の尊重〕
第63条 このように、朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の民が前記の自由、権利および許容のすべてを、正しくかつ平和に、自由かつ平等に、かつ完全に、かれら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申付ける。・・・朕の治世第17年6月15日、朕の手より与えらる。〔マグナ=カルタの普遍化〕
以上引用
こうみてゆくと、先のブログ記事で、私が、「『人間-天皇』と、日本人の人権天賦 国家神道の新約化」と論じたことも、決して荒唐無稽ではないということが、わかってもらえると思う。より、非神話的なプラクティカルな部分からいえば、敗戦による王権の分有と、合議制への土台、基本的人権の尊重ということである。ただし、合議を統合するような、王制は、象徴として残してきたというのが、イギリスの歴史だろう。
【参考記事】
・立憲主義の土台、マグナ・カルタ800年 英女王ら参列(ラニーミード=渡辺志帆 2015年6月16日)
式典にはエリザベス女王やキャメロン首相、リンチ米司法長官らが列席。エリザベス女王は式典プログラムに「大憲章の理念は重要であり、不朽です」とのメッセージを寄せた。
- 所属 健全な法治国家のために声をあげる市民の会
(sarabande)
マグナ・カルタは立憲主義の原点である。800年の時を経た現在も国家秩序を定めた理念は決して変わらない。
『日本国憲法』は、連合国軍(GHQ)占領中、連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、その後の紆余曲折を経て起草され、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、11月3日に『日本国憲法』として公布された。その6か月後、1947年(昭和22年)5月3日に施行されたものであり、当時の理念は立憲主義に基づく憲法であるため未来永劫、解釈を変えることはできない。
今、安倍晋三首相は、『日本国憲法』の解釈を無理やり変えてまで『安保法制』を成立させようと強硬姿勢に出ている。施行から68年後の今、憲法を私物化し勝手に理念、解釈を変え軽んじることなど許されるものではない。
『安保法制』を成立させたいのであれば、憲法改正の手続きを踏んで憲法そのものを変えてから出直すべきである。