第二次世界大戦終盤、高等教育機関に在籍する主に文科系の学生は、兵力不足を補うため、各校に籍を置いたまま徴兵検査を受け、入隊していきました。昭和18年(1943)10月21日には、明治神宮外苑競技場(2020年東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場の前身)において、「出陣学徒壮行会」も開かれています。
彼ら若き兵士たち、そして、彼らを送る女性たちの間で、当時、日本のある古典文学が愛読されていました。はるか700年も前に記されたその作品に、彼らはなぜ惹かれたのでしょう。若者が「戦争する国」に生きるとはどういうことなのか。文学を手がかりに、ぜひ、想像してみてください。
(「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者
名古屋大学准教授(日本文学・女性教育史) 榊原千鶴)
戦場の〈恋〉 ― 戦時下、若者が愛した『建礼門院右京大夫集』 ―
「戦陣に如何なる書を携行すべきか」
昭和13年(1938)、当時の文部省教学局が、大学・高等学校・専門学校の生徒を対象に行った「学生生徒生活調査」という資料がある。
- 国立国会図書館近代デジタルライブラリー「学生生徒生活調査 昭和13年11月調査下」
出身地や自家の職業、授業料、住居費、食費などとともに、勉強時間や趣味娯楽、読書傾向といった質問項目が並ぶ。「最近読みて感銘を受けたる書籍」の1位は、校種を問わず火野葦平『麦と兵隊』である。同じく上位の『土と兵隊』とあわせ、火野の兵隊シリーズがよく読まれていることが分かる。
一方当時、愛読する古典の代表とされたのは、『万葉集』だった。東大生でもその傾向は顕著だったことから、「学徒出陣した学生が『万葉集』を携えていったという戦時下の万葉集ブームの一端を垣間見ることができる」、と永嶺重敏は指摘する。
(『東大生はどんな本を読んできたか 本郷・駒場の読書生活130年』2007年、平凡社)
学徒兵と『万葉集』という組み合わせに、たとえば阿川弘之『雲の墓標』が描く4人の学徒特攻兵を思い浮かべる方もいるだろう。京都大学で古典文学を学ぶ同窓生という設定によるとはいえ、戦時下、『万葉集』は若者にとって身近な古典だった。
だが同時にここで、学徒兵には『万葉集』がふさわしいとする人々のあったことにもふれておきたい。昭和18年(1943)『三田文学』「学徒出陣特集号」は、各界の著名人を対象に、「戦陣に如何なる書を携行すべきか」と題したアンケート調査を行っている。推薦書の中心を占めたのは日本古典で、回答者76名中20名が『万葉集』をあげ、2位の『古事記』9名を引き離している。
古代、北九州の防備のために徴用された兵や、その家族が詠んだ「防人歌」の存在が、出征兵にとって『万葉集』を身近に感じさせたことは想像に難くない。「大君のみことかしこみ」と、天皇への畏敬を表す常套句で始まる防人歌が、天皇の命により戦地に赴く姿に重ね合わされもしただろう。その意味で『万葉集』は、それを真に愛読する者をもつ一方で、愛読書と称するにふさわしい戦時下の古典だったとも言える。
『建礼門院右京大夫集』
ところで、こうした調査にその名を見なくとも、たしかに若者に愛された古典があった。その名を『建礼門院右京大夫集』という。
詩人の大岡信は、「第二次大戦中、古典文学に関心をもつ青年たちのあいだで冨山房文庫版の右京大夫集が熱心に読まれたことを私は知っている。身近にもそういう人がいた」とし、中村真一郎の次のことばを紹介している。
(「文芸時評(上)」朝日新聞、1975年5月26日、東京夕刊)
私がこの歌集に最初にふれたのは、あの不幸な戦争中であった。そして当時の若者たちは争ってこの本を愛読していた。今日にして思えば、青年たちは自らを資盛になぞらえ、少女たちは右京大夫の運命のなかに自分の未来を占っていたのだった。
(中村真一郎『建礼門院右京大夫』「あとがき」1972年、筑摩書房)
『建礼門院右京大夫集』とは、平清盛の娘で高倉天皇の中宮である平徳子(建礼門院)に仕え、右京大夫と呼ばれた女性の私家集である。栄華を極めた平家公達・平資盛との恋と別れ、資盛亡き後の追慕の情を、右京大夫はそこに詠じている。
元暦2年(1185)、資盛は20代半ばにして壇ノ浦の海に消えた。西海に赴くにあたり、これが今生の別れと覚悟した資盛は、右京大夫に思いを語る。
かゝる世のさわぎになりぬれば、はかなき数に、たゞ今にてもならむことは、疑なきことなり。さらばさすがに、つゆばかりのあはれはかけてむや。たとひ何と思はずとも、かやうにきこえ馴れても、年月といふばかりにしもなりぬる情に、道の光を必ず思ひやれ。もし、命たとひ今しばしなどありとも、すべて今は、心を昔の身と思はじと、思ひしたゝめてあるなむ。その故は、物をあはれとも、何のなごり、その人の事など思ひ立ちなば、思ふ限も及ぶまじ。心よわさもいかなるべしとも、身ながらおぼえねば、何事もおもひ捨てて、人のもとへさてもなどいひて、文やる事なども、いづこの浦よりもせじと思ひとりたるを、なほざりにてきこえぬなど、なおぼしそ、よろづ唯今より、身をかへたる身と思ひなりぬるを、なほともすれば、もとの心になりぬべきなむ、いとくちをしき
(佐佐木信綱『建礼門院右京大夫集』1939年、冨山房百科文庫)
(現代語訳)こういう世の中になったからには、私の身が、すぐにでもはかないものになるだろうことは、間違いないでしょう。そうなったら、あなたは、少しくらいは私を不憫に思ってくれるだろうか。たとえ何とも思わなくても、このように親しくなって長い付き合いなのだから、その情けで、必ず私の後世を弔ってください。もし、命が今しばらくあったとしても、今はいっさい昔の身とは思わないと心に堅く決めたのです。なぜなら、それが不憫だとか、名残が惜しいとか、その人のことが気がかりだ、などと考え始めたら、その思いは尽きないでしょう。心弱さもどのようであるかと我ながら自信がないので、今後は何事も思い捨て、あなたのところへ手紙を出したりすることも、どこの海の上からもするまいとかたく決めたので、あなたのことを疎かに思って便りもしない、とは思わないで下さい。もうすべて、今から死んだと同じの身になったと心を決めたはずなのに、やはりともすれと、以前の気持ちになってしまいそうなのが、とても口惜しい。
後世を弔ってほしいとの願いどおり、忌日に仏事を欠かすことのなかった右京大夫は、結果として、この後50年余の春秋を過ごすことになる。晩年、藤原定家が勅撰集を編むにあたり、彼女に入集を求め、歌に添える名を問うたとき、彼女は迷うことなく、あの懐かしい平家時代の呼び名、「建礼門院右京大夫」を、と応えた。
二度と相まみえることのない人を想う50年。それは、古典ゆえの甘美な世界の話でしかないのだろうか。
昭和50年(1975)、『建礼門院右京大夫』を上梓した作家の大原富枝は、文庫本の「あとがき」に、執筆の動機を次のように記している。
資盛の運命は第二次世界大戦に死を覚悟して出陣した学徒兵たちの心情に重なり合い、彼女の歌集は彼等に愛されたと申します。右京の思いはこの戦争で愛する人を戦死させたたくさんの女たちの思いと重なるものでもあるでしょう。この汀夫のねむれる海の果て還らぬ息吹を求め手を触る。(京都・松下トシエ)
恋いに恋いて心阿修羅となれる日は遺影も遺品も棄てなむと思う。(仙台・堀歌子)
「朝日歌壇」にこの種の歌が絶えず載っているのを見ます。私自身、ある人の戦死をいまも胸に刻んで生きており、それがこの作品を書くモチーフともなっています。(大原富枝『建礼門院右京大夫』「あとがき」1996年、朝日文芸文庫)
女性にとって『建礼門院右京大夫集』は、心に秘めたたいせつな人への追慕の思いとともにある。ならば男性にとってのそれは、どのような思いのもとにあったのだろう。
元・学徒兵の思い
昭和63年(1988)4月、雑誌『民主文学』の巻頭を、『崩れる雲の下で』という短編小説が飾った。作者の伊藤義夫は大正14年(1925)の生まれで、敗戦の昭和20年(1945)には以下の状況にあった。
第四高等学校(今の金沢大学)在学中、学徒出陣で中国・黒竜省へ。ソ連軍南下侵攻、
敗戦により軍隊を脱走、中国人と難民の間を彷徨する。―― 「マルデアノ『人間ノ条件』ノ梶ソノモノデシタヨ。シカシ、梶ハすーぱーまんデアッタカラ死ンダケレドモ、僕ハ脆弱ナダメ兵隊ダッタ故ニ生キテ帰レタトイウ訳デス。老子ノ言ウトオリデス」と著者。翌年八月帰国。九月、東京大学入学。
(伊藤義夫『唐茄子南瓜政談』著者紹介、1963年、奥三河書房)
この略歴によれば、『崩れる雲の下で』の主人公、須田裕一二等兵に、伊藤の自伝的要素の片鱗を見ることも許されるだろう。須田は、入営後に乗せられた輸送船が、北方の守りにつくために出発すると告げられたとき、軍服のポケットにしのばせた『建礼門院右京大夫集』の表紙を指先で撫でながら、そっと息を吐く。そして、もはや本来の自分は、息をするこの身体にではなく、文庫本にこそ宿るとの思いを抱く。だが実は、直前まで須田は、戦地に携える書を迷っていた。
しかし彼は伊勢物語を選ばなかった。その理由は「東の方へ行きけり」という記述が、彼の境遇と完全に食い違っていたからである。その主人公は自己の意志によって東国へ行った。これに対して須田は自己の希望を捨てさせられ、他から与えられた意志を表にして「北方の守り」に引っぱられていくのだ。そこを比べれば、何の面目があって在原業平を道連れにできようか。
やはり道行の連れは、女性の方がふさわしい。当時の風習の常として、右京大夫の本名はわからないが、その歌と詞書きとは凡庸ではなく、内容の主なものは敗死した平家の公達への綿々とした恋情と未練である。これなるかな。遺書代りの論文一編をも満足に書き終えられなかった出来損い学徒にとって、過去への未練を主題とする女の歌声ほどふさわしいものがあろうか。今右手の指先に触れる冨山房文庫の文庫本一冊は、こうして須田裕一のありし日の存在に代わるものとなったのである。
『建礼門院右京大夫集』が、昭和の時代に広く読まれるに至った理由のひとつは、昭和14年(1939)、歌人佐佐木信綱により、それが手にしやすい冨山房百科文庫の一冊に加えられたことにあると推測する。異国を走る列車に揺られながら、枕代わりの上衣には歌集が眠る。そこに収められた一首を思い浮かべつつ、須田は入隊前の在りし日を思う。
入営の前日、家で親戚一同が酒の席に集まった時繰り返された教えは、「馬鹿になれ」という一言だった。内心の思いが消える時、それは実現する。それは必然の転落の道であることが判っている。
転落を押し止め、須田を娑婆に繋ぐのが、この一冊の古典だった。『崩れる雲の下で』は、妻や恋人の存在にふれないが、須田と同じくこの古典を携えた兵士のなかには、避けることのできない死を前にして、妻や恋人、あるいは思いを寄せた女性のなかで、自らが生き続けることを願う者がいたはずだ。
「野ざらしの空しさ」
阿川弘之『雲の墓標』は、出撃に臨んで両親にあてた特攻学徒兵の遺書を描く。
死後片づけていただきたいような問題は何もありません。金銭関係、女性関係、全然ありません。蔵書は適当にして下さい。ただ、出水にいたころ世話になった人、熊本県水俣××深井蕗子、此の人のことを、もし生きていたら私は申し出たかも知れません。しかし先方は何も知らず、其の後文通もないのですから御通知等は御無用と思います。突っ込む時、父上母上の面影と一緒に胸にうかべるかも知れないので、一寸だけお断りをしておくのです。
いま八時半です。走り書きで、さようなら。
想いを告げることさえできなかった女性の面影を思い浮かべながら、最期の時を迎えようとする。『雲の墓標』に『建礼門院右京大夫集』の名は引かれないが、右京大夫への想いを抱き続けた資盛の姿は、多くの兵士の最期に重なる。そして残された女性は、繰り返し繰り返し、想いびとの心中に思いをはせる。
今年91歳を迎える料理研究家の辰巳芳子は、結婚生活わずか3週間で夫を失った半生を振り返り、次のように語っている。
お話がまとまって結納が来ました。そうしたらたちまち「教育召集」がかかったの。それで父は相手の方に「とにかく無事に帰って来てから結婚すればいいでしょう」と。
そうしたら彼は、藤野義太郎というのだけど、無言でうなずいて、そのときポロッと一粒涙を・・・・。そのことを私は、父と先方にお話しにいって帰ってきた母から聞いたのね。その頃は親同士と向こうの本人とだけの話し合いで、それが普通でしたから、私はその場にはいなかったわけ。
でも、彼が涙を見せたと聞いて、私は思ったのね。帰ってくるまで結婚を先延ばしにしてはいけないのではないか、と。死ぬかもしれない人を泣かせっ放しというのはよくないんじゃないか、と。で、「すぐに結婚式を挙げてもいい」といったの。
(辰巳芳子『食に生きて 私が大切に思うこと』「英霊・藤野義太郎」2015年、新潮社)
夫は、送られた先のフィリピンで戦死する。訃報に接した辰巳は、そののちずっと、この結婚が果たして良かったのか、自らに問い続けることになる。だが50年の時を経て、彼女は答えを見つける。
辰巳 そうね、ずっと結論が出ませんでした。結婚して、本当によかったのか。それは「戦死」ということがどういうことなのか私には、わからなかったから。
―― はい。
辰巳 でも、戦争から50年が経ったときに、テレビで私と結婚した人が亡くなったセブ島あたりの、野ざらしの日本兵の死体を見た。それは、本当に「不自然な死」でした。
── 不自然な死。
辰巳 私が戦争に反対する理由は、ひとつです。それは、その死が「あまりに不自然」だからです。
── はい。
辰巳 でね、そうしたら‥‥。あれは、とても不思議な体験だったんだけど「見てほしい、見てほしい」って呼びかけのようなものを、感じたんです。自分が死んだところを、見てほしいって。
── そして辰巳さんは、セブ島へ行かれた。
辰巳 そう。そしてね、実際にその場に立ってみたらあの「野ざらしの空しさ」が、わかったの。そして、「これは、待ってくれている人がいるのといないのとでは、全然違う」と思った。自分の心に寄り添ってくれる人がいるのと、いないのとでは、全然違うと思ったんです。
── 同じ、そこに倒れてしまうのでも。
辰巳 だから‥‥。
── はい。
辰巳 「結婚してよかった」って、思ったの。
(「手仕事とは いのちとは 愛のこめ方とは 辰巳芳子さんが教えてくれたこと。第3回 いのちは、時間のなかにある」2012年11月、『ほぼ日刊イトイ新聞』)
「待ってくれている人」、「自分の心に寄り添ってくれる人」、かけがえのないその存在が、支えとなり、生きた証となる。かりにそうした存在に出会えなかったとしても、切なる思いを託す一書として、『建礼門院右京大夫集』は愛されたのではなかったか。
だが、そうしたささやかな願いさえも、打ち砕く言説があった。
「戦陣に如何なる書を携行すべきか」のアンケートに対して、亀井勝一郎は次のように応じた。
私の気持としては、軍隊に入る際には、一冊も本など携行せぬ方がよいのではないかと考へてゐます。軍隊には農民も商人も其他あらゆる層の人がゐます。 無学文盲の人達であつても、その中に伍して決して学生知識人ぶることなくたゞ上官の命令のまゝに訓練をうけ、軍人に賜りたる勅諭を身読するのがまづ第一と思はれます。書物などさつぱりあきらめて軍隊そのものに身を委ねるのが 一 番いゝのではないか、最上の書物の精髄は軍隊そのものの中に生きてゐる筈だ、私はさう考へてゐます。
(中野綾子「学徒兵への読書推薦 – 「戦陣に如何なる書を携行すべきか」『三田新聞』アンケート一覧」 『リテラシー史研究』2013年1月)
「書物などさつぱりあきらめて軍隊そのものに身を委ねるのが 一 番いゝ」。
昭和16年(1941)12月8日、日米開戦に発奮し、雑誌『文学界』が企画した「近代の超克」のなかで、「奴隷の平和より王者の戦争を!」と呼びかけた亀井は、軍隊では精神の奴隷となることを兵士に求めた。「馬鹿になれ」。須田のことばを借りれば、それは転落の道への第一歩である。
自身をこの世につなぐわずか一冊の書物さえ、手にすることが許されないとしたら。
昭和の若者たちは、700年の時を超え、相愛のふたりを引き裂く離別の悲しみに思いを重ねた。そして70年。もはやその書名さえ知らない多くの若者に、死地で思い描く〈恋〉など似合ってよいはずがない。
*以上、書き下ろし。
なお、本原稿を執筆するにあたり、立教大学教授・鈴木彰さん(日本文学)より、資料の一部を教示いただきました。記してお礼申し上げます。
たとえ戦争の世でも、無名の一般人であっても、誰の心にもある文学性と内面の豊かさを論じる心に沁みる論考に、深く感じ入りました。
非道の政権に対して、ふつふつと怒りが込み上げます。この怒りは、嘗て多くの民衆が理不尽な死に対して抱いたものに通じていることを感じます。封建時代でもない、近代でもない、人権が憲法によって保障されている現代において、繰り返されるとしたら、今、声をあげねば必ず悔やむことになる。建礼門院右京大夫 改めて読み直したいと思います。ありがとうございました。