【IWJすこやかブログ】原発事故から3年 避難先で「本当に農家としてのスタートを切ることができました」~雪月花(@setugetuka7)こと、高橋知子さん

雪月花(@setugetuka7)さんこと、高橋知子さんより、ご寄稿いただきました。高橋さんは、以前は東京にお住まいでしたが、原発事故後に家族で熊本に移住し、現在は、無農薬栽培の農業を営まれております。

この度、頂戴しましたご寄稿では、農業や田舎暮らしの現状について、ご自身の経験をもとに、非常に赤裸々にお書きいただきました。是非とも最後までご覧ください。

また、ご寄稿の最後には、高橋さんがどのようなお気持ちでこちらをお書きになったか、メッセージをいただきました。そちらもぜひご覧ください。(すこやか編集部)

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原発事故から3年 避難先で「本当に農家としてのスタートを切ることができました」

執筆者:雪月花(@setugetuka7)こと、高橋知子

東京で働き、暮らしていた私たち家族は今、熊本に移住して、無農薬栽培の農業を営んでいます。朝、太陽がのぼるとともに目ざめて、野良仕事を始めます。日が暮れると、あたり一帯はネオンなどなく、真っ暗な夜となるので、家で家族がよりそって過ごし、都会人よりずっと早い眠りにつく。そんな自然のサイクルに従った暮らしをしています。

実は原発事故の2年くらい前から農薬を使わない、なるべく手作業で行う農作業の援農や体験、無農薬栽培の方の農地の一部で農作業をするなどということを始めていました。原発の事故が起きる予感があったわけではありません。まだまだ若いうちに、少しずつ「老後の準備」を始めようとしていたのです。

娘はまだ小学校低学年でした。同じ年頃の参加者の子供たちと蛇の抜け殻や田んぼの生き物を捕まえたり触ったりして、東京では味わえない自然の体験をさせていただき、楽しんでおりました。

◆震災を機に感じた地上波テレビとネットとの落差

東北の大地震は2011年の3月11日に起こり、その翌日の夜に岩上安身さんのインターネット中継で原子力資料情報室の会見を偶然視聴しました。地上波テレビとの温度差を強く感じました。きっこのブログのきっこさんのツイートも拝見し、この原発事故の深刻さを受け止めていましたが、その一方で、その頃人気が高く、私も信じていた東大の先生のツイッターも読んでいて、「安全」という言葉もうのみにし、水道水をそのまま飲んでしまっていました。

原発が何度か爆発しましたが、にもかかわらず、何度か子供だけでお使いに行かせてしまったりもしました。思い出したくない判断の誤りでした。何が正しくて、何が間違っているのか、自分たちはどう行動すべきなのか、すぐには判断つかないことが、たくさんありました。

寝る間も惜しみツイッターやブログ、岩上さんたちが取材され、発信されている情報、特に東電の会見などにはくらいつき、必要な情報を拾っていきました。次第に今まで知らなかったことが見えてきました。原発事故そのものの様相だけではなく、原発を抱え込み、その存続をはかるための社会の仕組みも、です。

放射性物質の測定が地上数十メートルの場所で行なわれて、農産物の放射性物質の基準値が事故後すぐに引き上げられたり。

「東電は責任をとらなくてもいいようにとりはからう、国の暗黙の了解がある」

「国が原子力という言葉を使って東電に核兵器に使うための原料を造らせている」

「このままでは補償もごく一部の人で、国民は実験材料」

この国の政府の、そんな腹づもりがわかってきました。国は責任を逃れ、東電は国の指示で原子力事業を行ったことならば仕方がないとして冤罪される。そういう結論がとっくに出されているんだなと、痛感しました。

まず避難をしよう。そして、原発の事故現場から可能な限り離れた場所で、念願だった無農薬での農業を始めよう。もともと立てていたプランの実行を急ごうと決めました。

◆避難を決意 熊本へ

鎌仲ひとみ監督のツイートによって、熊本の「ゼロセンター」というところで、食事代だけで滞在できる場所があることや、期間中のみ無料の移住者向けアパートがあるとの情報を得ました(その後、利用者は被災地域の方に限られるようになりました)。すぐに飛行機の予約をして、5月30日に熊本に生まれて初めて降り立ちました。夫を東京に残し、娘だけ連れて。

一時的に滞在させていただいた所でお世話になり、避難者向けのアパートを借りることができました。地方に行きさえすれば、すぐに農業に従事できるようになるかというと、そうではありません。農地を借りなければ農業はできませんが、農地は、簡単に借りられるものではないのです。

移住してすぐに最初に訪ねた農家で、農地を借りたいと申し出ましたが、「研修生が優先だから」と断られました。一般の企業のような響きですが、農業にも研修制度があり、学ぶべきことがあって、そうした研修がすんでいる人たちが優先されるのです。

◆無償で働きながら学んだ有機農業

数か月後、知人の紹介で、有機農家さんの農場で、農地を借りるために研修させてもらえるようお願いしました。最初は無償で、働きながら、学びましたが、その後国の「農の雇用」制度を申し込み、研修を始めました。

2011年の9月から約1年半、無償の期間も含め、朝から晩まで休みも「自主的」に納品や草取り等、労働しました。農地の契約が頭から離れなかったからです。

一年半後の2013年2月、東京の会社を辞めた夫と一緒に就農するために研修先の近くで農地をやっと紹介してもらいました(実際農地を借りる手続きも地域によって異なります。希望の地域の情勢をお調べください)。

2013年の春から、近くの耕作放棄地を借りられるようにと、2012年の年末ごろから話を進めていきました。耕作放棄地やそこへ続く農道の整備のため、夫は研修先での農作業のあい間に、平日も休日も通って、木々や草の刈り取りを進めていました。

◆ショックな出来事も… 体はボロボロに

そんな折、ショックな出来事が起きました。研修先のおばあちゃんが入院され、お見舞いに行っていたその日に、研修先の農家さんは、私たちが開墾していた農地を何の相談もなくユンボで天地返しをし、その農家の中心作物用の畑に形を変えてしまったのです。私たちは自然農を志していて、ユンボはおろか管理機でさえ買う気持ちはなかったのです。天地返しも必要ありません(よく混同されますが、自然農と有機農業は違います。自然農では使いませんが、有機農業では通常大型機械も、畑のうねを覆うためのビニールである黒マルチも使います。収量を上げるためには必要です)

翌日、その農家さんから、「あそこの畑は使えなくなった。我が家の『作』を植えるから」と言われました。「違う場所を貸すから、黒マルチを使い、収量を上げられるような作を作れ」と言われました。

開墾を進めていた土地の所有者は、その農家の親戚の人で、研修先の農家さんには「契約の金額を値切っているから、契約はもう少し待ったほうがいい」と言われていました。契約書は私たちの手元にはなかったのです。話が違う、といって抗議しようにも、手元に契約書がなければどうすることもできません。

半年前からもう一年研修しなさいと再三言われていましたが(最長2年)、私は体がボロボロになっていたので断っていました。実際、肩が動かなくなって一週間寝込んだこともあります。そのために、その「補習」として、休みもなく年末に研修をさせられました。まるで犬か猫のように私たちの言い分や意見を無視し、酷使するだけ酷使して、最後は土地を契約させないという結論だったようです。

それでも、何とかその場で農地を「借りたい」と懇願しましたが、その研修先の農家の奥さんに「そこの土地は使わせないから」と、何を言ってもものすごい剣幕で拒まれ、何度も「帰って!!」と大声で怒鳴られました。立場が弱い私たちは、声もありませんでした。

なぜ、その場所を借りられないようになったか、これは想像ですが、複数の理由があったのだろうと思います。

①その土地は休耕地で、土に自然の栄養があったこと。
②次の春からの研修生がいない予定だったため、国の補助を使った研修生の確保がしたかったこと。
番外編ですが、③その農家の奥さんに「いじめ抜いて辞めさせてやる」と半年前に宣言されていた「事件」があったこと(苦笑)

これが、都会の人間が直面した「田舎暮らし」の現実の一端です。田舎の人、農業を営んでいる人は都会の人間と違って、みんな素朴で優しく、嘘や強欲や不誠実さはない、というのは、幻想です。優しい人もいますが、冷たい人もいます。

これから田舎暮らしをする、農業を始めようとする人は、研修先については、慎重に選ばれた方がいいかと思います。

目安は研修が終わった後、元研修生が今どうしているか。跡形もなくいなくなっている、近くで開業できていない場合などは、研修生が摂取されて使い捨てにされている可能性が高いと思われます。

そもそも研修は必要なのかどうか。この点については、意見が分かれます。国の補助金を受け取れることを考えると、研修制度はあった方がいいという人もいるし、なくても過疎地でのびのび自然農を始める人もいるので、必要ないという意見もあり、様々です。

一般的な社会常識から考えれば、そのような場面では、他人がいあわせたならば、「帰れ」などと怒鳴れないものですが、独裁政権と同じで、その場に居合わせた研修生の人は、地主に逆らえない昔の小作人と同じく、土地がないので立場が弱く、当たり前の意見も言えません。

原発事故の「怖れ」の気持ちを抱く東日本からの避難者たちは、その農家さんによって、研修生同志、競争をさせられている間柄です。競争社会の継続で、言葉は悪いですが、お互いただの「奴隷」の身ではないか、と痛感させられました。

農家になるためには、過疎地以外では、農地の土地の契約、地域の人との関わりなどは、地元の人の「顔」がないと先に進みません。研修生は何かと証明書を書いてもらったりします。よそ者はよその常識を持ち込めばつまはじきになります。(これは③につながる理由です。私も未熟でした)

これが原発事故で避難した私たちの現実の一部です。しかし、その一方で、戦後、アメリカに従順に従い、日本の農業を圧迫してきた政治圧力の下、農家が生き残るためにどれほどの苦労があったことだろうかと想像力を働かせることも必要です。

◆都会の消費者が担っている「大量に安く農作物を作るシステム」

米も野菜も、いくら作っても安く買いたたかれます。農薬を使って人手をかけず単位面積あたりの収量を挙上げないと、安く作れず、安くないと売り先がありません。有機農家の方も、売り先を開拓していかないと、いくら作っても売れません。慣行農業(肥料や農薬の投入量について、最も良く実地されている一般的な農業)も有機農業も、多く作り売りさばかないと採算があわない点は一緒です。

有機農業と慣行農業は、まったく別のもの、と都会暮らしをしている消費者は思い込みがちですが、共通点がたくさんあります。慣行農法の農作物だけでなく、有機農産物であっても含まれている硝酸態窒素は、大量に摂取すれば、人間でも家畜でも、死に至ることがあります。根本的には、第一次産業が軽視されているため、安く大量の農作物を作らざるをえず、土地に無理をさせ、農薬をかけなければならない。そうでないと、農作物が安定してとれないのです。

なぜ農家は安易に農薬を使うのか、と農家さんだけを一方的に責め立てる都会人もいますが、大量に安く農作物を作らせているシステムの一端を私たち消費者も担っているのだということを忘れてはいけません。

こういってしまうとミもフタもないのですが、程度の差こそあれ、私たちは、環境破壊をしながら自然という資産を切り売りし、生き延びているのではないかと思えてきます。

里山近くでは、子供の通学路の細い道をダンプカーが猛スピードで行き来しています。「客土」と言って山の土がダンプカーでどんどん運ばれ、山が削られ土がなくなっていっています。使い道は農業、建築など様々です。

イノシシが出る、シカが出る、その原因は山の木が杉やヒノキばかりで食べ物がないこと、山自体が削られていくことにあります。「ジビエ(狩りによって得られた野生の鳥獣)がうまい」というグルメな人は、狩猟民になりきったような感覚で言っているのかもしれませんが、その前に山に感謝し、思いやる気持ちが必要なのではないでしょうか。狩猟民の人にはそうした感謝の念があったはずです。自然を破壊し、収奪し尽くせば、元も子もなくなるからです。

なぜ山から野生の動物が下りてくるのか、その理由に思いをはせていかなくてはという時期のような気がします。森がなくなれば人間も生きられません(日本熊森協会のホームページをご覧ください)。

辛口の話ばかりになって申し訳ありません。もちろんもっと楽しい「オーガニックライフ」をしている人はたくさんいると思います。ですが、私の目に映る田舎暮らしは、生活排水が田んぼに流れていてヘドロがたまっていたり、JAS規格の畑や田んぼの近くで農薬が飛んで来たり、無農薬をうたっている農家さんが除草剤を撒いているところもあるという現実です。楽しくなくて、本当に申し訳ないです。

古民家がいま注目されていますが、梅雨の時期以降は天井の電気が覆い隠され部屋が真っ暗になるほどのシロアリが出たり、ゴキブリやムカデもでます。スズメバチ、大きなムカデが毎日台所に現れて、当たり前のようにトングで掴み、外にキャッチ&リリースということも。これには夫も見守る立場を貫いています(笑)。

本当は安い物件も、都会からの移住者に対しては、高めの値段で商談を持ちかけられ、相場を知らない都会の人は二つ返事で購入し、後で後悔することもあります。お気を付け下さい。

◆震災から3年、農家としてのスタート

私たちは、ずいぶんたくさんの苦い勉強をするはめになりました。それでも、私たち家族は、住み慣れた東京へ戻らず、試行錯誤しながら、熊本で農業を営む暮らしを積み重ねています。おかげさまで、過疎地域の農業委員会さんにお世話になり、半年以上かけて農地を探すことができました。近くの賃貸物件を決めて、この春に里山に引っ越しました。震災から3年を経て、本当に農家としてのスタートをきることができました。

日本人は戦後遊ぶ時間も惜しみ、寝る時間を削って一生懸命に自分の置かれた環境の中で、最善を尽くして頑張ってきました。その頑張って働かされてきた私たちの汗と涙は、じつは原発であったり、製薬会社であったり、大手マスコミの広告費であったり、そうした大資本、大企業の利益として消えて行っているということ。私がこの3年間で学んだことは、そういうことです。

ではそれが見えた今、私たちは今後何を選択していくか。現実として自分の支払うお金がどのように流れていくのか。この先どのような人生を歩んでいきたいか。

まずは、マスメディアの情報をうのみにしないことだと思います。IWJのような独立メディアの情報に耳を傾けてみる。でも、そこからさらに、自分から調べて出かけていくことでさらに世界が広がるように思います。私たちもそうでした。岩上さんが発信した情報をきっかけに、それを手がかりにして、自分たちで調べ、行動を起こし、さんざん痛い目にもあいながら、農家としてスタートをきれるところまできました。

私たちが政府や大資本や、それに従属するマスメディアに騙されていることは、原発や地球温暖化だけでもなさそうです。すでに起こった原発事故への責任追及は大事なことです。でも、それだけに力を注いでいても、私たちに残された時間には限りがあり、手持ちの時間がなくなっていきます。今、もっとも気がかりなのは、すぐ近い未来に迫っている最大の危機、現政権が押し進める戦争への流れを止めることができるかどうかが、最大の問題であると強く感じます。戦争へ突入していけば、どこに住んでいようと、どんな仕事をしていようと、災いから逃れようがありません。

原発事故のことを考えると、怒りの感情がわいてくるのは抑えられません。私たちは、原発事故の問題を最大限、真剣に受けとめ、自分たちの仕事も、住む場所も一新する、人生最大の選択をしてきたのですから。原発への怒りを無理に制止しようとするのも不自然なので、その感情の存在自体は否定しないでしっかり感じ、同時にその思いを次の行動に繋げていくことが被災して亡くなった方への恩返しになるのではないか。そんなふうに考えながら、日々、祈るような気持ちで畑を耕しています。

私たちは、いろいろなものを失いました。であるからこそ、ふっきれたこともたくさんあります。これからは今までやってみたかったこと、やりたいことをどんどんはじめていこうと思っています。自分の得意分野を生かし、生産者となって、大手のマスコミを支える大企業へお金が流れていかない方法を見つけていきたいと思います。私たちのお金がめぐりめぐって、戦争の資金源となることは許せない。お金の果たす役割は大きいものです。お金がなければ、戦争もできません。
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高橋さん、この度はご寄稿いただき、誠にありがとうございました。

高橋さんより、こちらの文章をどのようなお気持ちでお書きいただいたか、

メッセージをいただきました。

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ここまで、私のつたない文章をお読みくださりありがとうございました。

日本の山の景色などの美しさなどは、他のテレビや雑誌で知っていただけると思いました。現在、私は就農半年目で、農業収入は¥0です。楽しそうな田舎暮らしの内容は、新規就農者で、移住した人がよく出てくる「九州の食卓」という雑誌があります。知っている人も時々出ています。現実とは少し違うこともありますけど・・・。そちらを参考にされた方がいいと思います。

私たち以外にも移住している人はいますが、新規就農して、生活が出来なかったり、田舎の人とうまく溶け込めなくて、半分の人がまた都市に戻ります。日本の農業が駄目になる政策がとり続けられています。そのような暮らしですので、まだ中学生の子供がいる我が家が田舎で自然農をするということは、生半可な理由ではじめられるものではありません。

遺伝子組み換えや、F1の種による搾取の構造、農薬による環境汚染など、将来の日本の食べ物を微力ながら自分たちも何とかしたいという一心で貯金を切り崩しながらの生活を選んだのです。

読んだ方には私の体験を、売られている食材の情報の一部として捉え、今後の食材など選び方のヒントになればと願います。

このたびはブログを寄稿するという、貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。

皆さまには、くれぐれもお身体を大切になさっていただきますように。

ご健康をお祈りいたします。

雪月花( @setugetuka7) こと、高橋知子

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