[スタッフの寸評紹介]水俣病公害訴訟について ~(<IWJ の視点>ぎぎまきのハニー・フラッシュ(仮):IWJウィークリー6号より) 2013.6.9

記事公開日:2013.6.13 テキスト
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(ぎぎまき)

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【IWJウィークリー6号】アベノミクス・バブルの終焉と外資優遇の成長戦略(epub版・PDF版を発行しました!) 2013.6.9

 「無限に生きられるわけではないんです。いつまで解決しないつもりですか」

 熊本県から訪れた、あまくさ法律事務所の田中芳典弁護士は、環境省職員に対しこう声を荒げた。

 「第38回全国公害被害者総行動デー」の一貫として、6月6日、環境省・特殊疾病対策室との省庁交渉が行われた時のこと。全国各地から集まった被害者の胸の内を代弁した。

 水俣病とは、化学工業会社であるチッソが、海に流した廃液により引き起こされた公害病である。1942年に発生したことが確認されているが、国が公害だと認めたのはそれから26年後の1968年。被害の拡大は対策措置の遅れだとして、国はその責任を認めている。

 工場から排水されたメチル水銀に汚染された魚介類を食べることで、主に脳など神経系を冒し、手足のしびれやふるえ、耳鳴り、言葉がはっきりしないなど、さまざまな症状を引き起こす。水俣病の根本的な治療法は今のところ見出されていない。

 これまで、水俣病の認定申請をした人は、熊本・鹿児島両県合わせてのべ17,000人以上(新潟県は除く)。そのうち、県によって認定された患者は2,268人。

 1971年、当時の環境庁は、手足や口周りのしびれ、言語、歩行障害などといった症状のうちいずれか一つがあれば、水俣病と認定していたが、77年、複数の症状の確認が必要となり、認定のハードルが上がった。認定率はたったの15%と低い。しかし、被害が発生してから71年後の今もなお、認定を待ち続けている人がいるのだ。

 冒頭で紹介した田中弁護士の言葉は、途方もない間、水俣病の症状に苦しみ、社会的差別をうけ、その苦しみを無視され続けてきた被害者たちの無念を的確に表現している。

 今年38回目になるという、公害総行動の取材をしながら、私は先日、小平住民投票の取材でインタビューした哲学者、國分功一郎氏から聞いた言葉を思い出していた。小平市の道路問題に長年取り組んできたご老人が説明会の場で、都の職員に向けて、このように言ったという。

 「私たちはもう50年も反対してきましたよ。だから私たちは年をとりました。あなた方は年をとらないけど」

 小平都市計画道路は50年前に浮上した道路計画であるが、これを進めてきたのは「東京都の職員」だ。担当者は数年ごとに変わり続ける。つまり、相対する「東京都の職員」は、常に若返り続け、この50年間、「全く年を取っていない」ようにみえるというのである。

 水俣病の問題にも同じ構造がみられる。患者らは、1年か2年で交代して絶対に年をとることがない行政や国の職員を相手にしてきた。被害者はずっと、「私たちの声を聞いてください」と言い続けてきたのである。田中弁護士は過去3年間、この交渉に参加しているが、応対する室長は毎回違うという。交渉する度に担当者が変わり、同じ説明を繰り返し、同じ答弁を受ける。何も前進しないまま、時間だけが経過してくのだ。水俣病患者は、水俣病そのものの苦しみと、その苦しみを目のあたりにしながら、問題解決を先送りしていく行政の「不作為」の両方に苦しめられる。

 「何年待てばいいんですか。何度、この交渉をすればいいんですか。いつまで待たせるんですか。私たちは無限に生きれるわけではないんです。もう長く生きれない人だっていっぱいいるんです。亡くなっていった人もいっぱいいる。いつまでこういう答弁を続けて、水俣病の解決をしないつもりなんですか」

 田中弁護士は、福島原発事故の被害者に対する救済についても懸念する。

 「(国や行政による)救済が遅れると被害者は司法の場にその判断を委ねざるを得なくなります。裁判は長い時間を要します 」

 今年4月、福岡の最高裁が水俣病患者を認定する判決を出した。最高裁としては初めて、要件とされてきた複数の症状がなくても、認定はできるという判断を示したのである。

 原告である女性が水俣病認定申請をしたのは1974年。熊本県から棄却という申請結果が出たのは1995年8月のこと。遺族はその2ヶ月後、行政に異議申立てを行うが、処分が出たのは2000年に入ってから。結果は再び棄却だった。そして2002年、遺族は熊本地裁に取り消しを求める裁判を起こす。ようやく2013年4月、福岡高裁が認定判決を下した。この時、申請してからすでに29年の月日が経過していた。

 「不作為」との闘いは、あまりにも果てしない。まして、交渉相手は永遠に年を取らないとくる。一縷の望みを前にどれだけの被害者が泣き寝入りをしてきたのだろうか。

 実は先に紹介した田中弁護士を含め、環境省と交渉を行った熊本からの弁護団は30代~40代と若い。水俣病問題と長くともに生きてきた土地柄、弁護士になった若手は自ずと、水俣病問題と関わることになる。「水俣病の弁護団は、若いのが特徴です」と田中弁護士は言う。ここにも年を取らない存在がいることは、希望の一つである。

 「被害がすべてです。被害があったことを証明するには、多くの人が立ち上がるしかない。足がつる、手足がしびれるというのが水俣病の症状です。該当する地域に住んでいたことがあれば、検診を受けてください。最後は数です。数が多ければ、国は無視できませんから」

 最後に田中弁護士は、IWJのカメラに向かって、国を動かすためには一人でも多くの被害者が立ち上がることだと、その重要性を呼びかけた。

 メディアの端くれである私たちは、一人でも多くの人々に語り継ぐことが使命だと思った。38回を数えた「全国公害被害者総行動」。日本中から、各公害問題に関わる37団体、約2,000人もの関係者が集結し、都心で数々のアクションを起こしたにも関わらず、このイベントを大きく報じた大手メディアはほぼ皆無だった。

 最後の夕方の日比谷公会堂での集会を取材したプレスはIWJ一社だけだった。

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