私は今回の参院選と今行われている東京都知事選を通して、宣伝・支持拡大の難しさを痛感している。
第2次安倍政権がマスメディアを『アンダーコントロール』下に置いた結果、「KY」などと叩かれて退陣した第1次政権の頃とは、同じ安倍政権ながら全く違った雰囲気になってしまった。政権が批判に圧力をかけることで、マスメディアは萎縮し、民衆には政権批判を憚り、批判する者を叩く風潮が作られた。
日本社会はこの2~3年でガラッと変わり、改憲に向けての国民統制が極めて静的(↔動的)に作られた。とても呆気なかったと思う。
マスメディアが報じないなら、ほかの手段で報せるしかない。そう思ってネット(特にツイッター)に書き込んでみたり、ビラを撒いたり、電話や対話をしようと思った。しかし口下手な上にこの雰囲気ではなかなか話ができず、結局ほとんど対話できなかった。
結果的に、参院選で改憲勢力が参議院の2/3議席を占めてしまった。都知事選も、野党共闘もむなしく鳥越さんは苦戦している。
ネットや対話で支持を拡大するのは難しかった。ネットはまだまだ『真実の情報源』としての評価は低い。また対話では、政治の話を難しがって忌避する人が少なくなかった。そしてテレビの報道を『真実の情報源』として真に受ける人は相変わらず多い。これらのことが、投票率を下げ、与党支持を増やし、現在のような結果を招いたのだと思う。
それにしても、政治論議を忌避し投票に行かない人たちの層はどのように形成されたのか。
そのヒントになる記事があった。7月22日付信濃毎日新聞で精神科医の斎藤環さんが「社会の成熟度と個人の成熟度は反比例する」と書いていた。成熟した社会では若くして働かなくてもそれなりに生きていけるので、社会性が発達しにくいというのである。
私はこれを読んで、小6になった時に「5つ違いの近所の従兄弟が6年生だった時に比べて、明らかに未熟者のこんな僕が6年生になっていいのか」と思ったことを思い出した。その思いは、まさに「社会と個人の成熟度の関係」を表していた。
斎藤さんの考え方に従えば、世代毎に下がる投票率も頷ける。若い世代ほど成熟した社会に生きてきたので、個人が成熟せず、社会性も未熟で、投票に行かない、つまり政治参加意識が低いのだ。
そうなると、憲法改正が発議され国民投票にかけられた場合に、選挙と同じように若い世代ほど投票しない人が多くなることが予想される。そこに今日本社会に広がっているような同調圧力がかかれば、改憲も困難ではない。私は悲観している。
今現在、日本の平和は政界を震源とする危機にあることを広く報せなければ、先は見えている。「ナチスの手口に学」んだ歴史の繰り返しだからだ。IWJや赤旗など、しがらみのないメディアを広げることは必要だが、現実的には限界があると思う。結局マスメディアの勇気ある英断を期すしかないのではないだろうか。全てはそこから始まった事態なのだから。