<論理を否定する人々への怒り―青森県六ヶ所村で平安時代の人々の生活の跡を土のなかに探しながら>
現在、青森県六ヶ所村に考古学の発掘調査のため学生と来ています。昨日、8月30日、日本国の国会議事堂前に1/120000として加わることができなかったことを残念に思っております。
しかし、夏休みのこの時期に学生たちと発掘調査をする、それが私の日常です。そんな多くの普通の人々に、抗議活動という非日常を強いておきながら、その意味を考えない現政権に「国民の平和を守る」などと語る資格はありません。
私が今回、日本国政府に対し主張しなければならないと考えたのは次の1点です。論理を否定することへの怒りです。論理を無視して政権に都合のよい憲法解釈をし、その結果、立憲主義を掲げる日本国で、政権が憲法をないがしろにする。そのようなことを許すわけにはいかないと6月4日に感じたのです。もちろん戦争をすることは人類への反逆であり、それを可能にする法案など認めることができないのは当然です。
論理を愛する憲法学者の方々による法案への違憲判断、これは国会に出席した3名全員が一致していました。現政権はそれを謙虚に受け止めるのではなく、国民の目の前で、堂々と無視してみせました。
その後、憲法学者や弁護士の大部分を占める方々から、法案は違憲であるから廃案にせよとの意見表明が続きました。日々、論理と法を愛し、社会に尽くす人々による意見です。単なる「多数決」とは意味が違います。仮にそれを合憲とする意見があるとしても、論理的にはむしろそれは“誤り”と考えねばなりません。それなのに現政権はこのことを誠実に考えず、7月15日、法案が違憲か否か誠実な議論を一度も行わぬまま、強行採決を実施しました。論理を無視し、数という暴力でそれを否定する、そのような思考回路を持つ者たちに政治を乗っ取られたままではならない、そう私は感じました。
学問する私たちにとっての現政権への怒りは、政治の話などではなく、純粋に学問的なものです。学問は論理を基本として成り立っています。学問する者にとって、それを否定することは学問自体の否定であり、絶対に許すわけにはいきません。論理の無視、否定は、学問を論理の追求ではなく、単なる欲望のための道具に貶めることにつながります。
このことは現政権が、一部の価値観念、例えば経済だけを対象とした“実学”重視の立場から大学を編成しなおそうとしていることからもよくわかります。
またその経済も、地球環境を永続させることを基本としたものではなく、“グローバル”とは名ばかりの、人類の一部の層によるある特定の産業を重視したものに組み替えてしまおうというものです。地球上の多様な人類の暮らしが、近視眼的な視野の人々によって一気に破壊されようとしています。論理に生きるわれわれがそれを見てみぬふりをするわけにはいかないのです。
論理の否定は、やがては暴力、人殺し、戦争、すなわち人間の否定へと続きます。私たち、論理を愛する者は、それを絶対に許すことはできないのです。
(松本建速 東海大学文学部歴史学科考古学専攻)