近頃、公民館などでの講演や集会の申し込みについて、施設側の事前検閲が広がっている。
資料やチラシに「原発」「戦争」「憲法」「安保法制」といった文字があれば、使用取消を求められることがあるという。理由は「政治的中立性」を損なうおそれがあるので、ということらしい。
政治的中立性とは?
国家公務員法には中立性の逸脱例について述べた箇所はあるが、選挙運動、特定政党支持などに限定されるように見受けられる。
ところが国は、長きにわたり基本法の精神とは裏腹に、政令条例によってその運用を自分たちの欲する色に染めてきた。
そして自分たちに目障りな動きは「政治的中立性」を損なうものとして排除しようとしてきた。
今、ヘリパッド電撃着工にむけ、沖縄高江で強行されている機動隊による暴行や道路封鎖も、国からすれば「政治的中立性」を損なう動きを排除しているだけ、ということになるのだろうか。
案の定というか、国とのあうんの呼吸で、大手マスコミは、高江の住民たちの動きを殆ど無視し続けている。これも報道の「中立性」への配慮なのだろうか。
所有地や生活基盤の侵害を政治的とは言わない。それに抗議することが政治的中立性を損なう、とはなおさら言わない。
一方、国は500人以上の治安警察官を投入して、民間人を暴力で排除する。これを「政治的」解決と言わずして何と呼ぶのであろうか。
立憲国家である以上、自国の憲法に従う限り、国の振る舞いは政治の執行であっても「政治的」ではない。国が憲法の要請と間逆に振る舞うとき、それは激しく「政治的」である。
司法も砂川判決の頃から、国のやることは「高度に政治性をもつ問題」なので司法判断になじまないとして、ことごとく不問にしてきた。基地差し止めも原発訴訟も。
これは、どれほど酷い独裁政権下であっても、その「政治的」振る舞いにより、原告側がたとえ生命の危険にさらされようと「訴えの利益」はない、と言っているに等しい。
今後、この国の権力形態は、特定秘密保護法と緊急事態条項、そして改憲によって、その完成形をみることになるだろう。
ただし、この国はほとんど法治国家ではないので、「普通の国」になれば、欧米先進国にくらべても人権侵害の度合いはすさまじいものになる、と覚悟しなければならない。
自民党憲法草案による改憲危機は目前にある。改憲されれば、憲法の役割が国家権力の濫用を縛るものから、市民の自由・人権・平等を制約するものに、非戦から先制攻撃容認へ、時の政府が「押し付けられた」ものから市民が押し付られるものに180度変わってしまう。
憲法危機といま我々がおかれている状況を、すべての市民、団体が自らの判断で考えていかなければならない。
国に判断を丸投げしてはならない。