みんなで語る「改憲への危機感」寄稿文 Vol.32 緊急事態条項と日本の現状に抗うために 日本語教師 小川晶子さん

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 緊急事態条項には「前夜」を拝読したときから、「戒厳令」という言葉とともに恐ろしさを感じていました。重大な「緊急事態条項」を含む「改憲」を、選挙戦ではあえて隠してきた現政権の卑劣さには、言葉がありません。

 「緊急事態」を国が宣言したときには、「何人も法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体、及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公的機関の指示に従わなければならない」とあります。

 これは、一見国が私たち国民を守ってくれるかのような錯覚を覚えますが、騙されてはいけないのだと思います。この宣言により、人権も自由も極端に制限され、体制側に都合の悪い人間は逮捕され、まさにナチス・ドイツがワイマール憲法下の「緊急事態宣言」を利用し行った行為が日本でも起こります。

 そして、「緊急事態」が続く間は、「衆議院は解散されない」とあります。独裁政権であってもそれがずっと続くというのです。それは、憲法に乗っ取っていても事実上の「無法状態」と言えるのではないでしょうか。

 今の沖縄県・高江の米軍ヘリパット建設に反対している150人の市民に対して、500人の警察機動隊が行っている行為は、男性を車で轢き、女性の首をロープで締め上げるという公権力による犯罪行為です。

 沖縄問題だけではありません。格差が広がるばかりの経済政策により、日本は貧困大国になりつつあります。昨年は戦争法案が通り、日本は先の大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争への反省もないまま、「戦争ができる国」へと歩みを進めました。

 同時に日本は監視・密告社会になりつつあります。これら全てのことを私たち1人1人は、本当に望んでいるのでしょうか。沖縄で起こっていることを本土は見ないふりを続けることを、私たちは本当に望んでいるのでしょうか。

 改憲されれば、沖縄で起こっていることは、本土でも起きます。強者が弱者を食らうがごとき経済政策を、今後は医療もまともに受けられなくなり、遺伝子組み換え食品を選ぶしかない、そんな暮らしを、私たちは本当に望んでいるのでしょうか。戦争により、「殺し殺される側になる」ことを、私たちは本当に望んでいるのでしょうか。ジョージ・オーウェルが小説「1984年」で描き、アーサー・ミラーが戯曲「大司教の天井」で描いた非人間的な監視社会を、私たちは本当に望んでいるのでしょうか。

 現政権に盲従する人も、また無関心でいる人も、潜在的にこれらを望んでいると言われても仕方ないと思います。経済学者の植草一秀さんがおっしゃったように「私たちは政治に無関心でいられても、政治に無関係ではいられない」からです。先述した「厄災」は、一部の「特権を持つ人」を除いて、全ての人々に降りかかってくるからです。

 何かで、国や人々を支配したいと権力者が考えたとき、「法律」、「医療」、「教育」を掌握してしまえばいいというようなことを読みました。そうだろうなと思います。

 しかし、私は最も効果的な方法は人々の「思考力」を奪うことだと思っています。人を人たらしめている「思考力」を破壊すれば、支配はたやすいのだと思います。人は自分の頭で考えることにより、疑問を感じたり、もっと知りたいという欲求を抱いたりします。そして、考えることは「抵抗する力」に繋がります。だから「思考力」を奪うことで、「抵抗の牙を抜く」とも言えると思います。

 日本がこれだけ危機的な状況にあって、何も変化がないという現実は、「思考力」と密接に関わっていると、私は感じています。スマートフォンやゲームなどにより、私たちは日々、思考する力を奪われているような気がします。つらい現実に直面しても、それらが即座に現状を忘れさせてくれる「麻薬」の役割を果たしているのだろうな、と思っています。理不尽や不正義に立ち向かうよりも、そちらの方が楽だからです。そして、自分で考えないがために、いとも簡単に扇動される部分もあるのだと思います。

 「緊急事態条項」を含めた今の日本の危機的な状況に抗う手段は、「思考力」だと考えています。スマートフォンやゲームの電源を消して、今起こっていること、これから起こるだろうことを本当に望んでいるのかを、私たち1人1人が自分の頭で自問自答し、考えるのです。そして、本当はどんな国を、政治を、暮らしを、未来を望むのかを、真剣に思い描くのです。

(日本語教師 小川晶子さん)