安倍政権による改憲への志向にはさまざまな問題点があるが、なかでも懸念されるべきは緊急事態条項の新設であろう。昨年夏から今年にかけて「安保法案は憲法違反」とする運動が高まったが、改憲されて緊急事態が宣言されてしまったら、「安保法制は憲法違反」と批判すること自体が「憲法違反」とされてしまう可能性すらある。
安倍首相は、緊急事態条項について「世界中どこの国でも似たような規定を設けているのだから、日本でも当然だ」と語ってきた。こうした言い方に騙されてはいけない。
そもそも、アメリカのように大統領制をとる国と、日本のように議員内閣制をとる国では状況が異なる。議会の多数派が内閣を構成する議員内閣制では、議会による内閣のコントロールがききにくいという問題がある。「世界中のどこでも」という言い方では、そうした違いすら無視している。
同じ議員内閣制のドイツと比較しても、重要な違いがある。
第1に、緊急事態を簡単に宣言できてしまうこと。自民党の改憲草案では、国会の承認は事後でよいことになっている。しかも、対外的な戦争の危機も自然災害も一緒くたにしている。ドイツの場合、対外戦争の危機である「防衛事態」と「災害事態」を厳密に区分し、「防衛事態」の場合でも議会の3分の2以上の賛成による事前承認を必要としている。事前か事後か、3分の2か過半数かという違いは、細かいことのようでいて、大きな違いである。
第2に、緊急事態をズルズルといつまでも続けられること。ドイツでは、「防衛事態」における自由の剥奪は「4日間」と限定し、議会が単純多数でいつでも緊急事態の終了を宣言できると規定している。自民党の改憲草案では自動で「100日間」も継続し、国会の承認があればさらに延長できることになっている。しかも、衆議院を解散せず、参議院の選挙も先送りできるとしている。つまりは、いったん緊急事態を宣言したが最後、その後何十年も選挙をしないことさえ、原理的には可能な仕組みになっている。
第3に、緊急事態において、内閣が基本的な人権を制限するだけでなく、「法律と同一の効力を持つ政令」を制定できるとしていること。この原理を徹底させると、立法機関としての国会は不要となる。ドイツの場合、政府による法律命令の制定が認められるのは「防衛事態」のみだが、日本の場合は、新型インフルエンザの流行でさえこうした措置が可能となる。
ドイツの緊急事態条項にかかわる情報は、衆議院に提出された資料に書いてあることであり、ネット上でも公開されている(『「非常事態と憲法」に関する基礎的資料』衆憲資第14号、2003年)。だから、安倍首相は知っている、知らなくてはおかしい。それなのに「世界中どこの国でも似たような規定がある」というのは、内容上の重大な違いを捨象した欺瞞である。
緊急事態条項について、よくナチズムとの相似性が引き合いに出されるが、日本植民地支配下の台湾や朝鮮と同じだということも忘れるべきではない。植民地では議会は設けられず、総督の命令(律令、制令)は法律としての効力を持つとされていた。いわば「緊急事態」が日常化されていたのである。
そうしたことが実際に起こっていたのに、多くの日本人が忘れてしまっている。その歴史的健忘症につけこんで、安倍首相は、いま、この日本でその仕組みを復活させようとしている。これからは、「安倍首相」ではなく「安倍総督」と呼んだ方がよいかもしれない。この総督が気にかけているのは、もちろん、日本の市民一般ではない。「宗主国」としてのアメリカの意向であり、パナマやケイマン諸島に資産を蓄積するような大企業と富裕層である。
今日でも、永住資格を持つ在日外国人は、納税の義務を課されているにもかかわらず、国政への参政権を認められていない。安倍総督による改憲戦略は、そのような「例外」を認めてきた日本の民主主義の脆弱性につけ込みながら、さらにその範囲を市民一般に拡大しようとするものである。改憲を断固として阻止すると同時に、日本社会に生きる市民として「例外」なき民主主義を追求しなくてはならない。