みんなで語る「改憲への危機感」寄稿文 Vol.2 生まれ、名をもらった以上は「己」 谷口真也さん

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 今回、参院選の結果により、いわゆる「世論」が「国の意思」に、どんどん置き換わっていくことになるでしょう。放置すれば、「世論」はなくなります。改憲の実現の前に、マスメディアを通じて、「国の意思」で日本社会が語られ、賛否が問われ、結論が出されていく度合いが膨らむのです。放置するなら。

 「誕生日」が、「生んでいただいた日」に置き換えられるような理不尽が現実になりかけています。「生んでいただいた日、その通りではないか」という意見もあると、それはおかしいと「言わなくなる」ところでは、いかな「誕生日」も脇の脇に追いやられようというものです。「誕生日」は、さぞ心細いことでしょう。

 安倍首相はじめ現内閣、現与党が、選挙期間中は憲法改正にひとつも触れず、選挙終了直後に改憲の意思を示したことをどうとらえるか。

 国民自身が改憲を選んだという、国民自身の「自己責任」の形で改憲を確定させたいからです。政府は結果を「承る」だけという形で事を確定させたいのです。安倍政権は、いかなる責任も回避できる態勢で事を運びたいのです。情報を出さないまま投票だけさせることで、それは成功してしまいます。国政選挙しかり。国民投票しかり。

 政府、与党の責任回避をゆるしてはなりません。改憲の発議が可能となることは、発議する(した)責任をすべて発議した側が取ることを意味するのです。改憲の発議は、いかに結党以来の悲願を謳おうと、軽いものではありません。国民は決して軽く請け合ってはなりません。超超重大なことなのです。

 自民改憲草案は、「個人」から「個人」をはく奪し、「ひと」に変えます。

 これは、国が国民一人一人にマイナンバーをふったように、一人一人に「ひと」という名を国が付けることに等しい。

 私はすでに親からもらった名前をもっています。珍しいことではないはずです。

 生まれて、名をもらったら、「自分」です。どこの誰であれ、私にこのうえ名を付ける余地などひとつもありません。

 それを有無なく変えてしまおうとするのが自民改憲草案だと、私は認識しています。

(谷口真也さん)