【安保法案反対 特別寄稿 Vol.341】 戦禍の歴史からわれわれはいったい何を学んだのか? 「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者 四日市大学教授(カリブ文学者)山本伸さん

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 この大いなる問いは、純粋なひとつの問いであると同時に辛辣な反語でもある。われわれ日本は、一般市民として、あるいは国家として、十万の民間人を含む二十数万もの犠牲者を出した沖縄戦の悲惨な歴史からいったい何を学んだのであろうかという問いと、いや、結局は何も学んではいない、という反語である。

 あれから70年という長い歳月が過ぎ、生の体験を語ることのできる人の数が急減するなか、戦争がいかに人びとを苦しめ、悲惨極まりない絶望の淵へと追いやるものであるかを、その生々しい息遣いとともに共感的に理解し享受することができなくなるのも時間の問題である。

 そうなのだ。もはやバトンはわれわれに託されたのである。息絶え絶えにもがき苦しんで死んでいった人びとの、無念と悔しさと怒りと悲しみの血で染まったバトンを、われわれは、幸いにも、あるいは家族や親友を亡くした当人たちはむしろ不幸だと言ってはばからない、生き残った人びとの手から受け取ったのだ。そのバトンが冷え切ったただの物体にならないよう、受け取ったときのままの無念と悔しさと怒りと悲しみを人肌のぬくもりにたたえたまま、われわれは次世代へとつないでいく義務がある。それは人間としての義務であり、先人としての義務なのである。

 そして、その義務はわれわれ個人に留まるものではけっしてない。われわれの一人ひとりが構成する国家としての義務でもあるのだ。

 ( ― 中略 ― ) 折しも今の政権は、多くの憲法学者や各方面の研究者の猛烈な反対にもかかわらず、「安保法案」なるものをきわめて前向きに検討しつつある。「国民と国家を守るため」という掛け声とは裏腹に、法案には70年前のあの戦禍をふたたび巻き起こす可能性が高まるにちがいないとしか言いようのない条項がずらりと並ぶ。そして、その政権を選んだのは、誰あろう日本国民自身なのである。(以上、『リーラーVol.9』<文理閣/近刊>より抜粋)

 その日本国民自身が、いま全国規模で自ら立ち上がり、その動きはもはやうねりになろうとしている。沖縄を除いて、およそ日本国民が近年避けて通ってきた自らの意志を示すための最も手近で効果的なはずのデモという行為を、いままさに行っているのだ。ぬるま湯に浸かってすっかり客体化してしまっていた国民をいきり立たせるまでに主体化させた安保法案は、それほどまでに高い絶対値の負のエネルギーを有していることを自ら証明したようなものである。そして、それを通過させることは日本の民主主義の死を意味する。絶対に通してはならない。

山本伸 四日市大学教授(カリブ文学者)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ