今回の安全保障関連法案に関わる与党の動きは、憲法に違反している、また、議論や対話を尽くさずに性急に採決に向かうといった、法を成立させるための民主主義の理念や手続きの軽視ということにとどまらず、私たちをより大きな危険にさらすものです。
私たちは誰もが、富をもち豊かに暮らすことを望むと思いますが、富とは、究極的には安全保障です。工学者バックミンスター・フラーは、ある集団がもつ富を、その集団に「残された日数」であると定義しました。長らく生存を続けられることこそが富であり、すなわち安全の保障です。そして、武力の行使によって安全を保障することはできません。
仮に目の前の暴力に対して武力を行使し、束の間の勝者になったとしても、敗者となった側の欲求が消え去るわけではないからです。武力は、より強力な武力により打ち負かされる運命にあります。それを避けるためには、さらに強力な武力を持つ必要があります。武力の行使により安全を保障しようという考え方は、正のフィードバックにより武力の止めどない増強につながり、不安定です。
経済が好調に成長を続けられる間は、武力の増強における正のフィードバックは経済成長との整合性をもちます。そして、米国は世界最大の軍事力を持つに至りました。しかし、地球上の資源の有限性に基づいている以上、経済が永遠に成長を続けることはできません。
今回の法案は、米国からの要請だと思いますが、米国がその優位性を無条件に保てるであろう「武力の独占」という道を選択しないのは、それが自国の国益に反するからでしょう。武力は安全保障における資産ではなくコストなのです。
安全保障のコストをフェアに分担しよう、という考え方は米国の主張としては分かり易く、そのような要請があった場合、相手が世界最大の軍事力を持つ以上、立場的に不利だとは思いますが、武力による安全保障という考え方そのものが危ういのですから、それを鵜呑みにするのは得策ではありません。自衛隊が米国の軍事行動に参加することは、気候変動や地震による脅威が高まっている現在、災害への対応といった、広い意味での我が国の防衛力を削ぎ、自らを更に不利な立場に追い込むだけです。
安全保障を考える際に、武力よりも重要なのは、食料生産を含む生産性の高い豊かな環境を作ること、そして諸外国・地域およびコミュニティとの良好で、互いに依存し攻撃を誘発しにくい関係を保つことです。本来の積極的平和の考えに基づいて紛争をその原因から解消していき、暴力の意味自体を奪うことであり、武器ではなく知識を輸出することです。
地球上に偏在する資源に依存することによって、持てる側・持たざる側のどちらに立っても紛争を呼び込んでしまうようなことを避け、むしろ太陽輻射や大気の循環など、地上に遍在する資源を効率的に活用する技術の開発に注力し、その知識を世界と共有し、攻撃されうる要因を徹底して排さなければなりません。
また、米国を含む諸外国の軍事行動に参加することが、近未来的にどのような状況をもたらすかということを想像することも大切です。
人工知能やロボット技術による自動化の波は、武力のコストを下げるために、むしろ軍事において先導的に活用され発展していくと考えられます。集団的自衛権が実際に行使されるような近い未来、前線にもはや人間の兵力はいなくなっており、自動化された兵器が敵側の兵站を標的にするでしょう。
もちろん、兵站も自動化されるわけですが、例えば米国の兵站ロボットの護衛に就いた自衛隊員が戦闘により殺されていくことを想像しなければなりません。米国にとって、自国民の戦死者ゼロはゴールのひとつでしょう。我が国が米軍を支援するということは、そのゴールに対しても貢献するということを意味します。したがって、人手が必要とされるところへ優先的に配備されていくことを想定しなければなりません。
そして、攻撃行為の自動化は、紛争を根本的に解消する方向に向かわない以上、テロリストを含むあらゆる武力的主体において起きる変化だと考えなければなりません。攻撃はより安価に、軽やかになります。攻撃対象の痛手を最大化するため、戦場での兵站に関わらず、広い意味でのロジスティクスが攻撃の標的となります。同盟国と見なされる我が国の物流やエネルギー等、社会インフラへの攻撃を招くということです。
これはもちろん、いわゆるサイバー攻撃を含みますし、稼働中・停止中に関わらない原子力施設への攻撃も含みます。これらは、私たちをより危険な状態に置くことになります。
それは富ではありません。富でないものを安全保障と呼ぶことすら矛盾ですので、今回の安全保障関連法案は、違憲性や、法としての整合性を問われるまでもなく、その概念自体が、21世紀初頭の現在、すでに破綻しているのです。
仮に法として成立した場合、私たちは矛盾の中に置かれることになります。憲法に違反しているといった、人の社会の決めごとの整合性の破綻にとどまらず、安全の名のもとに市民の生活や生命が危険にさらされるという矛盾です。
この法案を是とすることは、私たちにとって賢明な選択とは思いません。むしろ、実際に私たちの安全が保障されることを目的として、紛争の解決の手段として武力を用いない、21世紀の技術的社会的状況とマッチした、新たな国内外の秩序の形成に向けた議論と対話を進めるべきです。
斉藤 賢爾 慶應義塾大学SFC研究所上席所員/関東学院大学非常勤講師(人間環境学部)