安全保障関連法案に反対する声は日増しに拡大しています。デモも今や当たり前の風景になりました。
しかし、それでもまだこの社会では、対面的な関係で政治のことを語りにくいという雰囲気があります。友達と政治の話はあまりしないという学生も少なくありません。そこには、もし話をして相手と異なる意見だったら気まずいから…というような躊躇があります。それは言い換えれば、周囲と「同じ」でなくてはならず、他者と「違い」があることは望ましいこととはみなされていないということです。
多様性という言葉が広まり、一人一人の違いが肯定的なものとして言及されるようになっていても、そして実際、各人の志向性は多様になっているにもかかわらず、まだこの「同じでないといけない」という空気は、人びとの日常生活を覆っています。
実は大学もまた、こうした状況と無縁ではなかったのではないかと思います。すなわち大学は、ともすると、「専門性」の名のもとに政治を遠くに追いやり、「中立性」の名のもとに個人の意見を主観的なものと捨ておくことで、結局、政治と日常生活を切り離し、個人の意見を公のものにすることをためらわせるこの社会をつくり出すことに手を貸してきたのではないでしょうか。
しかし実際には、大学、とりわけ人文社会科学系学部は、多様な意見をもつ個人の対話によって成立している空間、つまり一人一人が自ら批判的に考え、意見を表明し、他者の意見を聴き、それに応答する、という営みがなされる空間であるはずです。それゆえ民主主義が、人びとの対話に基礎づけられているとするならば、こうした人文社会科学系学部は、民主主義の担い手を育成する役割を担っており、またその空間は民主主義を実践する場そのものといえます。
今回の安保法制に反対する人びとの行動は、この社会で民主主義が再び胎動していることを示しました。大学生をはじめとする多くの若者が、卒業生が、市民が、民主主義の担い手として一人一人活動を始めました。
大学に身をおく者として、この動きを受け継ぎ、民主主義をより一層根づかせるための活動をこれからも続けていきたいと考えています。
(髙谷幸 岡山大学教員)