【安保法案反対 特別寄稿 Vol.317】 戦争が正当化される社会づくりを止める 「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者 大学非常勤講師(社会学)田中夏子さん

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絡みつく幾重もの無念さ

 私事から入りたい。小さな娘二人を残し、祖父はニューギニアで戦死。祖母はニューギニアからの帰還者を訪ね歩いたものの、どの話も食い違いがあって、祖父の死を確信する証言に出会わなったという。

 残された小さな娘の一人が私の母だ。母は昨年、傘寿を越えたが、今も戦争によって父親との死別を迫られたことへの怒り、無念は一向に癒えず、ふとした日常生活の一コマにおいても、その無念が激しくほとばしり出る。

 そのほとばしりを浴びるうちに、高度成長期初頭に生まれ、戦争の矛盾とは向き合ってこなかった私も、母の無念さを引き受けたいとの考えから、自らの乏しい想像力を駆使して、手記や証言を読み聞きするうちに、殺されることはもとより、殺す立場に追い込まれながら殺されること…この、果てしない絶望の中で理不尽な死が強要される「戦争が正当化される社会」には、断固たる拒絶感をもった。

戦争が正当化される社会を生み出す歯車としての政権

 想像力の乏しい私でもたどり着くこの拒絶感は、もっと理論的に、あるいは気持ちに迫る説得的な語りかけ・叫びをもって多くの人が、連日、この瞬間も発信しているところだ。しかし、安倍政権は、この声を「国民の理解が進まない」という不遜な一言で片付け、破綻を極めた答弁で主権者を愚弄し続ける。これほどまでの、人間としての逸脱を個人が担いきれるものなのか・・・。

 もはや個人の暴走を越えて、「戦争が正当化される」社会~「殺し・殺される関係」が倫理としてすり込まれ、システムとして装備される社会~づくりにむけて、与えられた任務を淡々とこなす・・・。安倍はその歯車と化しているのではないか。

 今は、安保法案と安倍という歯車になんとかドライバーを投げ込んで「戦争が正当化される社会づくり」を止めるのが何より先決だ。しかし、仮に採決を回避できた場合でも、使えなくなった「安倍」という部品を取り替えて、即座に「戦争が正当化される社会づくり」は、「再稼働」するだろう。そういう仕組みであることが、今回の議論から明確となった。だから私も微力だが、何度でもドライバーを投げ続ける。その歯車を動かしているのは、一体何なのかを一層見極めるためにもだ。

あらゆる回路をふさぐ

 集団的自衛権の容認が、ある日突然、降ってわいたものではなく、少なくとも1997年のガイドライン以降、アメリカとの関係において長らく潜伏してきたものであることが、法学の領域からも指摘されている。この構造はTPPにおいても全く同様だ。アメリカの年次改革要望や外国貿易障壁報告に沿った「規制緩和」が1990年代以降着々と進行し、日本の地域社会における仕事・暮らしの破壊が進行する中、それに抗する取り組みは「岩盤」として排除されてきた。

 私は協同組合を研究する立場だが、戦争法案の成立に突き進む政権のあり様とこの事態に至る現代史を振り返ると、仕事・暮らしの破壊もまた、「戦争が正当化される社会づくり」に連動するものと考えるようになった。

 だから、今は、安保法案を集中的に攻め、しかしその後も、「戦争が正当化される社会づくり」につながるあらゆる回路を見つけ出してはそれをふさぐ、そういう心づもりだ。

田中夏子 大学非常勤講師(社会学)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ