【安保法案反対 特別寄稿 Vol.315】 立憲主義を貫徹しよう 「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者 横浜国立大学教授(公法学)君塚正臣さん

このエントリーをはてなブックマークに追加

 政治問題に頻繁に発言するようなことは避けてきたが、今回の問題は、立憲主義の根幹を揺るがすもので、レベルが異なるため、発言したい。
(以下は、2つの新聞に回答した内容に加筆したものです。むしろ見解のブレなさを示します。)

 9条が自衛隊を許容するか、平時派遣のPKOを許容するかは争いがあろうが、( 友好国を攻撃したため集団的自衛権を行使する等の理由で)日本を攻撃する意思と行動を伴わない外国を先制して攻撃することを含む法令は端的に違憲である。自衛隊を合憲とする解釈は、個別的自衛権は近代主権国家が当然に有するとし、その実力としての戦力もしくは「自衛力」の限りでの実力行使は許される(一方で侵略戦争は厳しく禁じているとしてきた)としており、それを超える実力行使を許したのでは、そもそも自衛隊合憲論の根拠も危うい。

 政府見解も9条をマニュフェストに過ぎないとするごく少数説を採ることなく、平時のPKO参加などを認めてきた筈であり、本法案は自らの解釈にすら矛盾するものである。自衛隊違憲論はもちろん集団的自衛権の行使を違憲とする。つまり、真っ当な範囲の複数の法解釈から、集団的自衛権を合憲とする解釈は出てこないものである。

 「自衛権」に区別はないとする主張が散見されるが、二重の意味で無理がある。まず、国際法と国内法の関係は二元的なものであり、仮に、日本が集団的自衛権を行使しても国際法上違法ではないというのが国際法学の一般的理解だとしても、上記のように国内法上(憲法上)許されないことは動かない。

 そして、集団的自衛権は、個別的自衛権とは大きく異なり、20世紀半ばに国連憲章が創設した国際法上の権利であり、国家の当然の自然権的権利ではない。そして、これを行使するには国の主体的意思による集団的安全保障条約の締結が必要である。

 以上のことからも、集団的自衛権は憲法上認められないというのが主な憲法学者の9割余の見解となったことは、ごく当然である。ある論点で、法学者の9割が一つの意見で一致しているということは珍しく、学問的には争点ですらない(朝日新聞webをよく見ると、自衛隊違憲論者、現状維持派、憲法改正による集団的自衛権承認派まで幅広く本法案は違憲だとしており、政治的見解を超えて、真っ当な法解釈に集結したものと解される。これに対し、合憲と回答するか、無回答ながらそれに同調的な意見を示すのは、特定の学者の影響下にある特定学派に限られる。

 どの学問でも、天動説の如き少数説はいる、と言うほかない)。まともに法学部で法学を学んだ者ならば、この結論に達しよう。なぜなら、仮に本法案が許容できるのなら、9条は日本国の行為の何を禁じているのか不明となり、法に値しなくなるため、集団的自衛権(日本を攻撃する意思のない国を先制攻撃する)を合憲とする解釈はおよそありえない。与党側が与党寄りと頼んだ有力学説ですら明快に違憲とし、元法制局長官、元最高裁判事、元保守政党有力政治家の多くがこれに賛同している。このことからしても、本法案は違憲であることがはっきりしており、これを前提に議論を進めてよいと言える。

 因みに、政府側が度々引用した砂川事件最高裁判決は、日本国は戦力を保持せず、それによる「防衛力の不足」を「他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」とするもので、9条2項が禁じた「戦力とは」「わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊」は含まないとしており、ここで論点となっているのは個別的自衛権に基づくものと解するのが自然である。旧安保条約時代である判決当時、裁判で議論された事案とは、あくまでも外国軍隊の日本駐留である。司法権が、当該事件の解決を超えて法的判断を下すことは基本的には許されず、もしあったとしても「判例」の価値はなく、傍論に過ぎない。

 そして、そうだからこそ、同判決は、裁判所が一般的には条約の違憲審査ができること、しかし、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り」における統治行為論を肯定し、最高裁が旧安保条約の憲法判断をしなかったことがポイントであるとするのが、(学界での議論、後の判決での引用、法科大学院や法学部での講義、大学入試における「政治・経済」等の出題までを視野に入れても、である。

 なお、これまでに、今回の政府側のような趣旨で出題された入試問題等を多くご存知の方は提示して欲しい)まともな法学部関係者・出身者の通常の理解である。この判決を、日本国憲法が集団的自衛権を当然に許容したと読むことには無理であり、そうした理解は政府答弁まで思い起こしても、過去に聞いたことがない。新説である。新説であるならば、通説を覆すだけの相当高度の立証をして欲しいものである。

 一歩踏み込めば、砂川事件最高裁判決等で示された統治行為論の重要な意味は、安保・防衛問題は国会・内閣の裁量だということではなく、最終的には国民の判断に委ねるという点にある。軍事の素人は黙っていろ、ではない。だが、近年の国政選挙で今回の提案のような内容が主たる争点となった印象はない。もし、政府答弁のように、この砂川判決を先例として積極的に読むべきであれば、本法案が成立しても、裁判となった際、本法条の少なくとも一部は、一見極めて明白に違憲無効の法令であるので、(その事案でそうすることが「司法権」の作用として可能かは、事案を見ずには明言できないが、)裁判所は違憲と宣言してよいことになろう。その意味でも、政府側が本判決を引いたことは不可解である。

 防衛問題においては素人ながら、現政権の提案していることは、憲法判断を離れても、論理的にわからない点が多い。現政権は、中国の軍事的プレゼンスの拡大、近隣有事の際の邦人保護などを本法案提出の理由としているようであるが、そうであれば専守防衛や従来の安保条約の強化、近隣に友好国を増やす平和外交努力などが合理的であろう。

 これは、現在の憲法・条約・法律(個別的自衛権の行使)の範囲内で対応できる。そもそも経済的に緊密化を深めている米中の軍事的衝突は本当にあるのか。日中の軍事的衝突をアメリカは容認するか。しかも、本法案を素直に理解すれば、実際には中国ではなく、世界最強のアメリカ軍を攻撃したもっと別の国を(日本とは友好関係にあっても)自衛隊が攻撃することになるが、これは反撃を呼び、在外邦人を危険に晒そう。国益に適う理由が現段階ではよくわからない。それでもなお、アメリカの戦争に加わらねば日本の安全は守れないか。

 こういった点が十分具体的に説明されておらず、本法案が必要だという理由が理解できない。そもそも、現政権が、一方で国粋的な姿勢を見せ、アメリカ主導の「押しつけ憲法 」だという主張をしながら、他方、アメリカの要請が特にあったとは思えない段階で、その国との積極的共同歩調を採るべきとすることは理解できず、大事な問題での政策変更を任せられるか、不安である。

 今回の法案審議で、現政権が憲法をあってなきが如く考えていることが明らかと なった。9条改正への賛否や、法案の内容の適否、安全保障に関する政治的立場に拘らず、それは立憲主義に対する許し難い挑戦である。

 そもそも、国会の立法権は日本国憲法の授権によるものであり、憲法無視が国会の正統性を揺るがしているという矛盾に議会人が気づいていない。事態が急を要する(とは思えないが)ことを理由に法案成立に賛成の方もあるようだが、この理屈を進めると、緊急事態においては国会を無視して内閣が立法でき、司法権の独立を無視して内閣が裁判すらできることになり、論外である。9条改正、それに続いて原理的に無理な96条改正を模索しながら、政治的に無理だと考えるや、それをせねば不可能だと考えていた筈の本法案を通そうとしているものであり、筋道立った説明ができるものではない。

 「立憲主義」という語を忌避していることは、現政権が非立憲的なよい証拠であり、この政権の非立憲的振舞いは現憲法下の何れの政権とも次元を異にするものであって、とどまることを知らない独裁の始まりである。手続的に大いに疑問である。株価上昇を好景気の証に、中間層を瓦解させ、増大する「下流社会」の人々を騙して非立憲的政策を遮二無二進める現政権の手法は、アウトバーンを作り、フォルクスワーゲンを配給しながら野望を実現させた「ナチスの手口」に近いものがあり、黙殺できない。

 この法案の中身を通したければ、憲政上問題の多い現政権は退陣し、改めて次の政権の下、これに賛同する会派が中心となって憲法改正限界を超える部分を修正した上で、再度、国会が正々堂々憲法改正を提案し、併せて法案の賛否につき十分に議論して、最終的には憲法改正の国民投票と衆議院議員総選挙により国民の判断に委ねるべきである。

 本法案は、9条を保持しながら一見正反対の、およそあらゆる戦争を可能にする ことを提案したものである。端的に違憲であるし、専門家ほどそう考え、幅広い人々もそう思っている。

 しかも、衆議院通過は、およそ立憲的な手法とは思えぬ、多くの本質的疑問におよそ答えないままの強行採決であった。実体も手続も非立憲的である。本法案が成立すれば、国際的にも法治国家としての日本の信用もなくす第一歩となろう。中南米、東欧、東アジア、東南アジア、中東で民主化、近代立憲主義が普遍化した21世紀での愚挙である(アジア諸国の多くがそうとは言えない開発独裁政権であった時代でもない)。

 アジアに限らず、多くの国は日本をどんな国だと見るのか。百歩譲って、平和主義の危機は先進的な憲法原理の後退に過ぎないと解せても、立憲主義が崩れることは、日本が近代のまともな国でないことを世界に示してしまう国辱的なことである。与党は、大局的見地に立ち、第四次護憲運動とも言うべき多くの生の声や世論調査に現れた「声なき声」をよく聞き、今国会では法案を撤回し、国際社会での孤立を避けるべきである。

 今回、ほぼ明白に違憲であり、憲法の根幹を揺るがす法案が提出され、衆議院を通過したことは、違憲の法令の施行前、政府行為の直後にこれを違憲と断じて止める仕組みが必要ではないかとの思いを強くさせた。安保・防衛問題以外にも、種々の言論規制、国の政教分離違反、議員定数不均衡問題など、裁判所による事後救済に限界のあるものもある。

 現在の違憲審査制に加味して、衆参両院の指名で成り立つフランス憲法院に近い制度を創設してはどうかという提案をしたい(ドイツ型の憲法裁判所の導入では、通常の裁判所から違憲審査権を奪い、日本の法文化では、具体的事件を見ず、ただ現状にお墨付きを与える機能ばかりを発揮してしまうことが危惧されるので、第一投としては推奨しない)。

 また、衆議院議員総選挙における小選挙区部分の結果が今日の事態を招いたことに鑑み、これを緩和する修正(比例部分の比率を高めるか全国一区の投票を加味し、他方、参議院については比例区を原則とすると共に恒久的立法における比重を高めるなど)などをもう考えるべきではないか。

 そして、現憲法下における最初の憲法改正として検討すべきものはこのような統治機構に関するものであって、日本国憲法の大原則を葬るような根本改 正であってはならない(アメリカ、ドイツなど、主要先進国の憲法状況を少し調べれば、まともな国の憲法改正とはそういうものである。補足すれば、硬性憲法であることも、憲法制定権力が創設した憲法が授権した議会が過半数の賛成で憲法本体を自由に改正できないので、当然である)。

 加えてだが、もし、政権がかくのごとき非立憲的で独裁的な手法を進めるのであれば、政権に反対すると処罰される日も近いのかとも思わされる。被疑者の取調べの可視化など、刑事手続の適正を十分な水準にまで高めるとともに、言論の自由を守るため、死刑の廃止も真剣に考えねばならないのかとも思える。

 傍論だが、最近の国立大学全体の見直し方針は、安保関連法案の動きと無関係でもない。学問・知性の軽視であり、歴史学や哲学などを念頭に、政府の示す政策などに反対する研究はさせたくないように思える。筆者の研究分野に関して言えば、国立の法学部は15しかなく(経済学部のほぼ半分)、「法の支配」を国中に普く及ぼす気さえ全くないばかりか、辛うじて地方国立大学に存在する法学科や法律系コース等の縮小圧力(文科省による予算の締め付け)が各国立大学の自主的判断の名の下に各地で生じている。西日本を中心として、法科大学院の解体し放題については、言うまでもない。

 逆に、国立大学に採算を求めるなら理系重視は不思議であるし、いっそ民営化を掲げるか、各大学の裁量に委ねればよい筈だが、そうでもない。他方で、私学文系のいかにも文系然としたあり方(2・3教科穴埋め入試に象徴される)は放置しており、一貫性に欠けよう。つまり、なぜこのような政策転換なのか、よく考えると理由不明なことが突然降ってくるのが、現政権下の大学行政である。

 そして、入学式等での国歌斉唱、地歴分野などでの教科書検定の強化、特定教科書の推奨などの統制強化である。首相にはセンター試験の世界史の出題に介入した前歴すらある。現政権やこれに連なる権力は精神的自由に介入しており、こういった点から見ても反知性的で非立憲的である。政治に委ねることが最早危険である教育行政や放送行政、検察等の独立行政機関化も考えた方がよい。

 第一次政権が「改正」した教育基本法も元に戻すべきであろう。こういったことは、たまたま筆者が大学人だから目に付いたまでのことで、「アンダーコントロール」、国立競技場問題、五輪のエンブレムの問題、勉強会での暴言、議員の買春、NHK会長の人選、政権に近い東芝の不正に寛容な姿勢など、法の支配と適正手続、説明責任、即ち立憲主義とは無縁で恣意的な気配が政権周辺で蔓延している気がしてならない。

君塚正臣 横浜国立大学教授(公法学)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ