憲法違反の安保法案(戦争法案)への反対運動が、世代や立場を超えて広がりつつある。これまでとは異質の大きなうねりが日本社会に起こりつつあるのを実感している人も少なくないだろう。日本の民主主義は、決して死んではいない。これまでは何事かについての反対運動が起きても「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、すぐに萎んでしまうのが常だった。しかし、今回は仮にこの法案が成立してしまったとしても、そこで終わることはないだろう。非暴力の闘いはまだ始まったばかりである。
しかし、一方で気になるのは、安倍政権への「支持」が一定程度なお、あることだ。衆議院の特別委員会での強行採決の直後、各社の世論調査で30%台まで下がった内閣支持率は、再び40%を超える水準まで回復している。その間、川内原発の再稼働や戦後70年談話が出されたが、それらを「無難」に乗り切ったということか。それにしても、張りぼてのようにしか見えないあのような70年談話で内閣支持率が上昇するなら、日本人の私たちが、まだまだ「市民」になりきれていないということである。
私たちがいくら「反対」の声を大にして叫んだところで、安倍首相自身が持論を変えるということは絶対にない。いま問われているのは、実は安倍首相ではない。彼がそういう人物だということを十分見抜けず、2014年末の衆院選で与党を大勝ちさせてしまった私たちが問われているのである。結果が極端に出やすい小選挙区制の構造的問題はあるものの、投票に行かなかった人を含めて、私たちは安倍政権を「支持」し、「安倍さんもっとやってくれ」とエールを送ってしまった。各方面からの強烈な反対があっても、彼自身はそれを拠り所にしている。
逆に言えば、それしか彼にはない。だから、支持率が下がれば、安倍政権もすぐに保たなくなる。「市民」が増えれば自ずとそうなると私は見る。なお「市民」とは、自ら学び、考え、判断し、行動する自律・自立した人を指す。健全な批判精神をもち、他の人をケアする心を持った人のことだ。一人ひとりが「市民」になり、現在の反対運動のうねりが本物になり、これまでのような「お任せの民主主義もどき」を脱し、民主主義を自ら構築していけるかどうかが問われているのである。
そして、暴走する可能性のある国家権力にしっかりと憲法の枠組みをはめ、武力によらない国際協調・協力を独自のスタンスでしっかり進める日本を作っていけるかどうか――。その鼓動はすでに始まっている。そこに希望を抱きつつ、道のりは遠く見えても決して絶望せず、いまの状況に参加し続けたい。
もう一度言おう。問われているのは安倍首相ではない。私たちが「市民」になれるかどうかが問われているのである。
伊藤哲司 茨城大学人文学部教授(社会心理学)