2013-14年の特定秘密保護法に反対する運動を経て、今年の安全保障関連法案に反対する運動でも若者たちが主導的な役割を果たしている。そんな光景を見て思い出す言葉がある。
「私はフランス人であることが恥ずかしい(J’ai honte d’être français)」──こんなプラカードを掲げてフランスの若者たちが示威行動に出た出来事である。
私がパリに留学していた2002年春、フランス全土で150万人の人々が街路で声を挙げた。4月21日、大統領選挙第一回投票で保守派のジャック・シラクと極右「国民戦線」党首ル・ペンが社会党を振り切って勝ち残ったためだ。第二回投票での極右勝利を是が非でも阻止するため、極右当選という「社会の恥」に対して多くの人々が抗議したのだった。
この示威行動によって、行進コースは身動きがとれないほどの人で埋め尽くされた。大音量でロック音楽や民族音楽を打ち鳴らす各団体、拡声器で音頭をとる者、巨大なバルーンを空に浮かべる労働組合や左派政党、デモ集合場所に必ず現われる屋台自動車、パリ周辺から駆けつけた大型バスの行列、脇道に控え目に待機する警官隊――四車線ほどの道路を全面封鎖して行なわれたデモ行進には、老若男女さまざまな顔ぶれがみられた。なかでも活気ある高校生集団が目立っていたが、極右阻止のために高校生のあいだでは自発的にキャンペーンが盛り上がった。若者たちが掲げた「私はフランス人であることが恥ずかしい」という言葉はいささか自虐的な響きにも聞こえるが、しかし、彼ら/彼女らにそう発言させるべく強いている社会の大人らへの抗議の表明として実に力強いものだった。
この社会的な異議申し立ての流れはその後も引き継がれ、2003年2月15日、予想される不条理なイラク戦争勃発に反対するデモ、2006年春、二六歳以下の若者を最初の二年の試験期間中は理由なしに解雇できるというCPE(初期雇用契約)法案への反対デモなどに多くの若者が参加したのだった。
日本では若者がデモに気軽に参加する雰囲気はなく、デモと暴動の区別さえつかない学生も少なくはない。だから私は、大学の講義では、機会をつくって、フランスの示威行動を紹介し、日本の社会運動との簡単な比較を試み、学生らに政治的な直接行動の意義や課題を考えてもらうようにしている。
なかには極度のアレルギー反応を示して、教室で堂々とこんな発言をする学生もいた。「脱原発のデモの盛り上がりは、日本社会が衆愚に転じている悪しき実例」「素人が政治や科学政策に口を挟む姿は間違っている」「そんなことをしても何も変わらない、無意味」「デモなんて誰かが政治的に組織したもの」「友人でデモに参加して、その連帯感に共感しているヤツがいてやばい感じ(失笑)」「全共闘世代の政治センスと比べると、自分たちの世代はとても洗練されている」「社会運動をするなら、天安門事件のように、血を流すぐらい本気をみせてくれないと説得力がない」、等々。
しかし、2011年3月以降、東日本大震災、とりわけ福島第一原発の事故の衝撃を受けて、日本でも社会運動が浸透し始め、若者も声を徐々に上げ始めた。今年の安全保障関連法案に反対する運動が、若者が中心となって展開されるにつれて、私の身近な学生らのなかにも、「デモに参加してみました」と言う学生の数が増えてきた。どこかの悲惨な誰かのために、その代わりに声を上げるというよりも、原発や放射能の問題を、日本社会の平和の問題を自分の生存に関わる問題として自発的に行動を起こす彼らの姿は印象的だ。社会の未来を創っていく若者が政治的な問題に関心を示し、具体的な活動を先導する姿は大きな希望を与えてくれる。
立憲主義をないがしろにして、解釈改憲を強行する政治家たちの厚顔無恥を恥ずかしく思う。未来を肯定するために、この恥の感覚を強く刻みつつ、抗議の声を共に上げ続けたい。
(西山雄二 首都大学東京 人文社会研究科 准教授)