若者達に、これ以上の負債を負わせてはいけない。
もうすぐ退職という歳になった者にとって大学生は孫のようなものですが、彼や彼女たちが未来に希望を持てないでいることに、大きな責任を感じてきました。
1000兆円を越える国の借金、原発事故にもかかわらず再稼働を進める国の動き、そして「戦争法案」の強行採決等々と、将来を希望どころか悪夢のように想像せざるを得ないことばかりです。
そのような意味で「SEALDs」や「T-ns SOWL」の登場に一筋の光明を見ながら、自らも安倍政権の暴挙に強い批判の声をぶつけたいと思います。
大学生が政治問題に目覚めてやっと動き始めた。毎週金曜日の夜に国会議事堂前で、土曜日に渋谷で集会やデモをやっている。その動きは京都や札幌、そして沖縄などに広がって、数百、数千人の若者達が集まっているようだ。思い思いのプラカードを掲げ、マイクを握って発言し、ラップなどでメッセージを伝えてもいる。僕は出かけていないが、Youtubeではその模様をいくつも見ることができる。
集会やデモをリードしているのは”Students Emergency Action for Liberal Democracy – s”(自由と民主主義のための学生緊急行動)という名の組織だ。略して”SEALDs”と言う。
若者達の意識が変わりはじめた。そう思うと、どうしようもない政治状況に暗くなっていた気持ちの中に、ひとつの明かりがさしてきた気がした。参加したフォーク歌手の中川五郎はツイッターで「なんと美しき光景かな。未来を生み出す若い人々とこの時代を生きていることを心の底からうれしいと思う。未来は彼らと共にある。」と興奮気味に書いている。
そんな気分になるのは僕にもよくわかる。大学生が抗議行動に率先して立ち上がったのは半世紀ぶりで、僕らの世代が高校生や大学生だった時以来だからだ。”SEALDs”のFacebookには岡林信康の「友よ」がリンクされたりもしているから、余計に懐かしさを感じたりもしてしまった。
とは言え、そんな興奮をゼミの学生に話しても、彼や彼女の反応はいまひとつだ。僕の勤める大学のキャンパスにも、そんな動きはまだ見えない。渋谷に2000人といっても、まだまだごく一部の学生なのだと思う。内向きで政治には無関心の学生の意識を変えるのは大変だが、ほかの誰より自分たちに一番関わる問題であることに早く気づいて欲しいと思っている。
だからこそ、この動きは大切にして、芽を摘みとるようなことが起こらないようにとも思う。たとえば”SEALDs”のサイトには「私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。」といった声明がある。そしてこれに対して、自由で民主的な日本がどこにあるのか、それを作ろうといったい誰が努力してきたのかといった批判をして、その認識の甘さを突く声もある。
戦後に作り上げられてきた民主主義を守るのではなく、むしろその民主主義なるものの欺瞞を撃つことから始めなければという批判は、至極まっとうなものである。けれどもそんな批判を頭ごなしにしても、それはやっと芽生えた動きの芽を摘みとる働きしかしないだろう。身近にいる大学生達とつきあっていて肝に銘じているのは、叱るよりはまず褒めることであるからだ。とにかく行動し、その後で、自分で考えながら気づいていく。教師としてはどうしても、そんなふうに考えてしまう。
学生達は何より空気を気にするから、この流れが身近な人間関係に及ぶことが必要だ。その意味で不思議に思ったのは、”SEALDs”のサイトのSNSにFacebookやTwitter、それにYouTubeがあるのにLineがないことだ。僕のゼミの学生達の多くはLineしかやってない。たぶん多くの大学生も同じなのだろうと思う。
文科省が国立大学に通達した「文系学部・大学院の廃止、定員削減」は、2013年に出された「国立大学改革プラン」に基づくものです。私立大学には直接言及していないので、国の予算を多く使う国立大学は理系に重点を置いて、文系は私立大学に任せればいいということかもしれません。しかし、この改革が、安倍首相の「学術研究よりは社会のニーズにあった実践的な職業教育」をという指示に基づくものであることを考えれば、大学そのものの危機であることは疑いないでしょう。何しろ大学は研究の場である必要はないと言っているのですから、大学の教員は研究者である以上に実践的な職業教育をする教育者であるべきだということになるのです。
実際、このような圧力は安倍政権以前から、私立大学にも文科省の指示としてさまざまにおこなわれてきました。たとえば大学の授業は年30週を基本にしています。しかし、大学の行事もあれば祝日もあって、それより少ない数でずっとおこなわれてきました。ところが今では、この30という数字は絶対こなさなければならない数になって、祝日でも授業をやったり、夏休みが8月にずれ込んだりしているのです。授業計画であるシラバスについても事細かな指示があって、それが大学院の博士課程にまで及んでいるのが現状です。これはもう、「学術研究」つぶしを大学院にまで及ぼそうとする策略だと言うほかはないでしょう。
他方で学部では、進学を希望する学生自身のニーズが、圧倒的に就職に役立つ技術や資格を身につけることにあるのも事実です。役に立つ授業と勉強をどう提供するか。大学は今どこも、その生存競争に勝つために、学部やカリキュラムの改革に血眼になっているのです。その主な柱は仕事に役立つキャリアと語学です。しかし多くの教員は、この要請にうまく対応できないし、対応したくもないのです。教員は同時に研究者でもありますから、講義やゼミは、今自分が関心を持って研究していることを学生に開陳する場でもありました。だから同じ名前の講義名でも担当者によって中味はまるで違うことが当たり前のことでした。ところが、そんなやり方が、学生のニーズとしてだけでなく、大学の方針、さらには文科省の要請として、できにくくなっているのです。
大学生を取りまく状況は確かに厳しいものがあります。就職に役に立たないことに時間もお金もエネルギーも注ぎたくないと考えるのも無理はないのかもしれません。しかし、最近の学生と接していて何より気がかりなのは、無知を恥じないというよりは知らなくてもいいといった態度であったり、自分の考えを公言することをためらったり、そもそももたないで平気でいる姿勢です。だから、ゼミがゼミとして機能しなくなってもいるのですが、ここには中高で、その準備になる教育をほとんど受けていないという問題が大きいように思います。
選挙での投票権が18歳まで引き下げられました。文科省はさっそく、高校の授業で政治的な問題を扱わないようにといった通達を出しました。考える機会を作らなければ、政治についての関心を持つことは難しいのですが、現政権にとってはそれこそが狙いなのでしょう。そして文系学部、とりわけ文学、哲学、そして社会学といった分野は、批判勢力を育てるだけの邪魔なものだと思っているのかもしれません。だからそれは学生だけでなく、そのような分野とそこで研究する教員の減少と無力化にもつながるものなのです。
政治には無関心で、メディアの情報操作に流されやすく、企業の命令に従って従順に働く人材。国歌・国旗によって愛国心を自覚し、必要なら戦争にも行かなければと納得する国民。文系学部不要論は、何よりこのような人間を望む勢力が、権力を乱用して実現させようと画策することにほかならないのです。文学や哲学、そして社会学に無知な政治家が、今日本の社会をどれほどダメなもの、おかしなものにしようとしているか。そのことこそが文系学部の必要性を証明していると言えるでしょう。
ジョージ・ソーンダースの『短くて恐ろしいフィルの時代』は「内ホーナー国」とその外側にある「外ホーナー国」の物語である。「内ホーナー国」の住民は6名だが、小さすぎて一度に一人しか入れない。だから残りは「外ホーナー国」の国境沿いにはみ出して立っているしかなかった。「外ホーナー国」には十分広い土地があったが、国境の侵犯を苦々しく思っている者が少なくなかった。
「外ホーナー国」の住人のフィルは「内ホーナー国」のキャロルに恋してふられたのを根に持って、「内ホーナー国」に嫌がらせをし始める。大統領に取り入って国境警備隊を組織して、国境侵犯を理由に、「内ホーナー国」にある一本のリンゴの木と小川を税として取ってしまう。あるいは住民の持っていた有り金や着ている服まで奪ってしまう。調子に乗ったフィルはやがて大統領を追放して、自ら大統領を宣言することになる。「内ホーナー人」を閉じ込める監獄を作ったが、それを「平和促進用隔離区域」と名づけた。
この騒動は「外ホーナー国」の外側にある「大ケラー国」にも伝わった。コーヒーを飲みながらおしゃべりをすることが好きな7人の国民が住んでいた。しかし、フィルの横暴に危機感を持って、「外ホーナー国」に軍隊を派遣し、フィルの「親友隊」を滅ぼすことになる。「平和促進用隔離区域」(監獄)から解放された「内ホーナー人」が逆襲をし始めると、空から大きな手が降りてきて、両国の住民を眠らせてばらばらに分解をした。実は両国の住民は機械の部品や植物で合成されていたのである。大きな手(創造主)はそれらをまた組み立て直して、15人の住民を作り、国境線をなくして「新ホーナー国」とした。ただし、フィルの脳みそは小川に捨てられて魚の餌になり、胴体は「モンスター」として彫像にされた。
最初はイメージしにくい奇妙な話だと思ったが、日本と沖縄、そしてアメリカの関係にダブるように感じられてからおもしろくなった。あるいはフィルの言動が、安倍によく似ていることも気になった。もちろん、この物語を書いたソーンダースは日本や沖縄を意識していたわけではない。書かれたのは2005年だから、2001年9月11日に起きたニューヨークでのテロ事件との関連で批評されたりもしているようだ。
9.11とその後のブッシュの行動が、イラクやシリアの混沌とした無秩序状態もたらしたことは間違いない。だから、イスラム国を生む元凶となったブッシュもフィル同様に「モンスター」として彫像にされてもおかしくないのだが、残念ながら現実の世界には「創造主」が現れることはない。もちろん、世界中の紛争の解決をお願いすることも出来ない。けれども現状は、神頼みでもしなければならない泥沼状態になってしまっている。
日本のフィルであるアベもまた9.11後のブッシュにそっくりである。この「恐ろしいアベの時代」をどうしたら終わらせることが出来るのだろうか。先週の大学の講義で、僕は「嘘と秘密」をテーマにしてアベの言動を例に「ダブル・スピーク」の話をした。しかし学生達のほとんどは「国際平和支援法案」も「ホワイトカラー・エグゼンプション」も、その名前すら知らなかった。「秘密保護法」も「マイナンバー制度」も自分に関係する危険な法案なのに、なぜこれほど無関心でいられるのか。話をしながらあきれて、途方もない無力感に襲われた。
彼や彼女たちが「内ホーナー国」の住民になって「平和促進用隔離区域」に閉じ込められなければ気づかないとしたら、フィルであるアベは、いけいけで自分の野望の実現に向けて暴走するだけだろう。「空恐ろしいアベの時代」は、すでに短いといえないほど長く続いているのである。
今国会でとんでもない法案が次々と可決されようとしています。とんでもないのに、メディアも国民も大騒ぎをしない。その原因の一つは、とんでもないものであることを隠した法案の名前にあります。たとえば、安倍首相がアメリカで約束した「国際平和支援法案」は、アメリカがやる戦争を自衛隊が支援することを合法化するもので、「戦争法案」という批判が浴びせられました。国会の審議で出たことばで、実態を正確に表しているのに、首相のレッテル貼りという批判に同調して委員長が撤回の要求という、とんでも発言をした経緯があります。
国連の決議にしたがってというのならまだわかります。しかし「国際平和支援」というのはあくまでアメリカ一国に対してのものですから、アメリカがする戦争を支援する法案であることははっきりしているのです。アメリカがこれまでやってきた戦争が「国際平和」のためだったのかどうか。それはヴェトナム、アフガニスタン、イラクなどをみれば一目瞭然でしょう。安倍首相はアメリカの議会での演説で、それを「希望の同盟」と呼んで拍手喝采されました。(右図はNYタイムズから)
「支援」というと戦争には参加しないように聞こえます。しかし、戦争をするアメリカ軍のために兵器や物資を補給する役割を担うのですから、戦争に参加することに他ならないのです。軍事評論家の田岡俊次は、戦争で一番の攻撃目標は前線ではなく後方の補給部隊で、それは直接戦闘に参加するよりもっと危険だと指摘しています。そんな危険な法案が、国会での審議以前にアメリカとの間で合意され、国会でも自公の賛成によって可決されようとしているのです。
戦争をするための法案を「平和」と名づけるのは、まさにオーウェルの「戦争は平和」(War is peace.)そのもので「ダブル・スピーク」です。そしてこのような使い方を安倍政権は「積極的平和主義」でもしてきました。日本は憲法によって軍備は持てないことが明記されています。しかし自衛隊を作って、他国の侵略に対して自衛する軍備は持てるということにしてきましたが、それでも自衛隊は憲法上は軍隊ではないのです。その自衛隊がアメリカの戦争に参加できるようにするというのですから、もう憲法はあってなきがごとしになってしまうのです。
国会で可決されることが確実なものにもう一つ、「残業代ゼロ法案」があります。もっともこれは批判として名づけられたもので、正式名称は「ホワイトカラー・エグゼンプション」と言います。エグゼンプションは「免除」という意味ですが、免除の対象は雇用者が被雇用者に払うべき残業代にあるのです。つまり残業代を払わずに残業させることを合法化しようというのです。
この法を提案した厚労省は、報酬なしに残業させるのではなく、残業しないで済むよう促すもので、年収も1000万円以上に限定していることを力説しています。かつてこの法案は「家庭団らん法」などと名づけられたこともありました。しかし施行されれば、この法を盾にただで残業させることが出来るわけですし、派遣法と同様、徐々に制限を緩和していくことは目に見えているのです。
その派遣法に課されていた3年という契約期限も撤廃されようとしています。3年以上続けて働いたら正規の雇用にしなければならない。その規制を取り払って、何年でも派遣のままで働かせようというわけです。「残業ゼロ法案」もいずれ同様の道を辿るでしょう。
安倍政権が掲げてきた政策や彼がこれまで公言してきたことばはすべて「ダブル・スピーク」だと言っていいでしょう。「戦後レジームからの脱却」に、アメリカへの従属は含まれていませんし、「自虐史観」は侵略の事実をないことにする姿勢に他なりません。強者におもねり、弱者をくじく。「ダブル・スピーク」は、その事実を隠し正当化するためのレトリックで、そんなインチキをもっと声高に批判する必要があると思います。
戦前、戦中(戦争)があったから戦後(平和)がある。しかし戦後(平和憲法)の次にまた戦前(憲法無視と改正)が来ようとしています。安倍首相の「日本を取り戻す」というスローガンには「戦前の」ということばが込められているのです。無関心ではいられない状況なのですが、安倍政権の支持率は5割前後(2015年5月当時)で安定しています。まさに「無知は力」(Ignorance is strength)で、恐ろしい世の中になったものだと思います。
東京経済大学コミュニケーション学部教授 渡辺潤(コミュニケーション論、現代文化論)