国会前に行った。
たくさんの人たちがいた。連れ立ってきている年配の人たち。友達と来ている若い子たち。幟を立てたさまざまな団体。憲法学者たちの幟もあった。一人で来ている人たち。小さな子連れの家族。西洋人と東洋人のカップル。さまざまなプラカード。
拡声器の主張が響き渡る。人びとは耳を傾け、時に喝采し、叫ぶ。
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SEALDsのコールは、聴衆の心に届く。単純で強いメッセージを、リズムに乗せてたたみかける。
「自・民・党、感・じ・わ・る・い・よ・ね!」
「ア・ベ・ハ・ヤ・メ・ロ!」
「い・の・ち・を・ま・も・れ」
「こ・ど・も・を・ま・も・れ」
「じ・ゆ・う・を・ま・も・れ」
「けん・ぽう・ま・も・れ」
「戦・争・反・対!」
「Tell me what democracy looks like!(民主主義ってどんなんか言ってくれよ!)」
「This is what democracy looks like!(これが民主主義ってやつだろ!)」
連続的に繰り出されるフレーズと、ドラムが刻むリズムに煽られて声を上げ続けるうちに、伝わるということ、そして人と人が和するということの強さを、身体が思い知る。
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60年安保の時の思い出を語ってくれた先輩の研究者の言葉を思い出す。「大学1年だった私も、授業とデモで大忙しでした」。
国会前の、この街路、この並木には、そうした半世紀前の記憶が埋まっている。日本の各地の広場やキャンパスにも。
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デモに出かける前に、その逡巡を話してくれた留学生の言葉を思い出す。「先生、外国人でも、行って大丈夫なんでしょうか」。
私たちは今、反安保の抵抗運動のために立ち上がりつつある。それは歴史的な瞬間だ。
ところで、「私たち」とは誰なのか?
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デモには、誰が行ったのか。デモには誰が行くのか。声を上げる人々を見つめながら、そしてその場にはいない人々のことを思いながら、私は考える。
誰が腹を立てているのか。
誰が許しがたいと思っているのか。
何が踏みにじられているのか。
誰に、そして何に、危険が迫っているのか。
誰が立ち上がるのか。
誰と、立ち上がるのか。
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大学の授業で設定した今年のテーマは、「戦争の記憶」。三島由紀夫の「英霊の声」と、田村泰次郎の「蝗(いなご)」についての学生の発表を聞く。
この教室には、日本人と中国人と台湾人がいる。反応するポイントが違う。学生たちは、各々異なる背景と異なる考えとをもって、ここにいる。授業ではしばしば、彼らの「奥行き」に出会う。
台湾の学生が、発表へのコメントで言った。「兵隊は人間が人間でなくなるものなのだから」。私はそのとき、まだその言葉の「奥行き」を知らなかった。
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授業のあと、彼と個人的に話す時間があった。先日、彼のところに台湾軍からの呼び出しがあったという。予備役の兵士に対する一週間の再訓練。彼は言った。
《一年間の兵役期間は、人間を人間でなくするための期間だった。例えばわたしは、名前では呼ばれなかった。「38」と呼ばれた。「38!」、そう呼ばれるとわたしは反射的に「はっ!」と答え、直立しなければならない(彼はそうしてみせた)。兵役期間のあとは、人間でなくなったものが人間について戻る時間だった。しかし体に染み込まされた痕跡はなかなか消えない。あるときわたしは、食べ物を買うために店に並んだ。店員がある番号を呼んだ。
「38!」
「はっ!」
わたしは、そこで直立した。》
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私の勤める大学からも、兵士が出るということを想像してみる。たとえば、一定期間の兵役義務と引き替えに、学費の免除や生活費の支給などが行われるという制度ができたとしたら。
できたとしたら、貧しい学生から戦場に行くことになるだろう。ペンを置き、ラップトップ・パソコンを閉じ、銃を持つだろう。彼/彼女は、戦場に行き、殺し、殺されるを経験し、そして日常に、キャンパスに、戻ってくる。
「日常」はもう、彼や彼女にとって同じ「日常」ではない。心と体の損傷は、取り返しが付かない。いやあるいは、生きて帰ってきたことを、まず喜ぶことになるのか?
日本は徴兵制のある国にはなるまい。しかし新しい徴兵制は、徴兵制の顔をせずにやってくる。貧しい若者が、奨学金や給付金、あるいは就職支援に魅かれて、入隊する日が来る。台湾の彼の経験は、遠い外国の話ではなくなる。
ならば今、彼のような経験を持つ留学生・外国人たちの言葉に耳を傾ける価値は、ないか。
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「い・の・ち・を・ま・も・れ」
「こ・ど・も・を・ま・も・れ」
「じ・ゆ・う・を・ま・も・れ」
「けん・ぽう・ま・も・れ」
「戦・争・反・対!」
「Tell me what democracy looks like!」
「This is what democracy looks like!」
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SEALDsの掲げる主張に対し、批判と、反批判が出されている。批判の中には、SEALDsの主張に自国愛的な箇所があるか、ないか、という点が含まれていると私は理解している。とりわけそれは、日本に滞在中の韓国人研究者によるフェイスブックの記事を発端とする応酬において、過熱している。
もう一つ。反安保運動の先頭に立つ著名な政治学者の一人が「敢えて愛国という言葉を使いたい」と書いていた。
「愛国」。
「敢えて」と書いた彼は、この言葉の劇薬としての効果を、おそらく熟知している。安倍政権の進める安保法制に反対しようとする人々は、この国の行く末を憂いている。私も、そうだ。この国の築いてきた戦後の遺産を根底から破壊しようとする暴政に、私は心の底から憂慮し、腹を立てている。「愛国」はこちらにある、と述べる主張は、こうした憂いと怒りをさらに燃え上がらせ、加速させる力を持つ。
だが「愛国」は、分断の言葉であることも、忘れてはならない。
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反安保のデモや集会には、数こそ多くないが、在日の外国人も参加している。
SNSのタイムラインでは、在日の外国人、在外の日本人、そして日本に関心を持つ(外国在住の)外国人たちが、現在の動きを、多大の関心をもって見ている。
反安保は日本の問題だ。外国人には関係ない――。はたしてそうだろうか?
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二つの側面から考えよう。権力は、立場のより弱いものたちに、より激しくのしかかる。法治国家としての体制をないがしろにして突き進む政府と、政府の語る「危機」の言葉に煽られた世論は、誰にとってもっとも脅威なのか。
さらに。国を跨いで居住する人々のネットワークは、緊張緩和の紐帯そのものだ。在日の外国人たち、海外在住の日本人たち、そして知日派の外国人たちは、国と国とをつなぎ、そこで交わされる言葉を翻訳する通訳者たちだ。緊張を緩和させるのは、正確な情報に基づく理性的な言葉だ。
武器を持って海外に行くならば、殴り返される。言葉を交わし、お互いを理解しようとするならば、振り上げた拳は遠からず降ろされる。
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「い・の・ち・を・ま・も・れ」
「こ・ど・も・を・ま・も・れ」
「じ・ゆ・う・を・ま・も・れ」
「けん・ぽう・ま・も・れ」
「戦・争・反・対!」
「Tell me what democracy looks like!」
「This is what democracy looks like!」
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再び問う。「私たち」とは誰か。
誰が立ち上がるのか。
誰と、立ち上がるのか。
敵は明らかだ。
曖昧な言葉で危機を煽り、
対話を怠り、
自由な言葉を押さえつけ、
知性を踏みにじり、
過去を顧みず、
再び地獄の蓋を開けようとする戦争機械。
「や・つ・ら・を・と・お・す・な!」
「私たち」は立ち上がる。
自由と対話を重んじる「私たち」は立ち上がる。
声を響かせよう。
姿を示そう。
歩みを始めよう。
「私たち」はここにいる、と。
(2015.7.21 日比嘉高)