所載は、韓国誌(日本語訳タイトル)『いま、ここ -それを越えて-』第5号(2015年秋号)、2015年9月既刊。当誌が許可を下さったので、転載します。
平原の果てには、
軍団が害虫のように蝟集していた。――― 北川冬彦「平原」 ―――
イメージは島を超え海を超えて、最後はおそらく時間も超えて、中国大陸東北部の内陸の果てへと向かう。
なぜそのような「果て」の地にわざわざ軍隊が集まらなくてはいけないのか。なぜ集まる者が平原の地を走る動物でなく、平原の空を飛ぶ鳥でなく、「軍団」(軍隊)でなくてはならないのか。
これは1926年刊行の詩集『検温器と花』にあり、その三年後に出した詩集『戦争』では「戦争義眼の中にダイヤモンドを入れて貰ったとて、何になろう。苔の生えた肋骨に勲章を懸けたとて、それが何になろう。」と書く。中国東北が近代日本の植民地であった場所に育った詩人の言葉である。
「侵略の始まりはここから」だと近年「ニッポン」のなかで説明されることの多い「満洲事変」よりも、ずっと以前から、近代日本はあてどもない場所を侵していたことが予感される。
「70周年」とはどんな時間の概念だろう。それは本当に<時間量>だろうか? いや、何かに貼り付けられた「名前」なのではないだろうか?
ルソー〜中江兆民が、選挙日に投票しただけで安心するニンゲンを「四年目にただ一日だけの自由人。その前後の期間は奴隷」と呼んだことは、思い返してよい。いまの「ニッポン」では、この場所と時間がたどってきた歴史について、10年目ごとに一回投票する政治家ということか。
だがニンゲンの感情と生活は毎年365日ある。かつて帝国日本が始めたあの戦争による東アジアの被害者は、10年ごとに久しぶりに傷を思い出すのではない。それはあらゆる時間においての記憶なのだ。「70(周)年」と言う時、無関心のタイム・サイクルは、より長引いている。
「70年」。それは、「戦後」すぐに生まれたニンゲンが「杜甫」流に言えば、古稀=70歳になったということでもある。金銭と勢力を持って年をとった人ほど、何かの最後に、ニッポンを・ニッポンジンを・コクミンを(守れ)、、、と述べる傾向に無いとは言えないだろう。ましてや今後は続々と年をとるその人たちは、直接はあの戦争を知らない。
そう述べる人ほど、その当の「ニッポンジン」をも含むニンゲンのいのちの何たるか、を知らない。その「ニッポンジン」のいのちも、地球とアジアの全ニンゲン(庶民)のいのちを大切にしなければ、したがって近隣の土地・海・諸国に生きる人びとと仲良くしなければ、そもそも成り立たない。その姿勢こそがアジアの、世界の、まさに「集団的」庶民の「集団的」平和のはずである。
それを早くに証明したのが、東アジアを巻き込んだ日本の近代戦争と植民地支配の結果ではないのか? 日本の近代史の「77年間」(1868〜1945)とパラレルな時間の内側を生きた東アジアの他者たる人びとが、それを証明する。またオキナワ戦における地上の、ヒロシマやナガサキにおけるあの雲の下の、現地の人びとが、それを証明する。
「戦後」+「70年」ディスクールと東アジアの他者とが問題となる今年、次のことは言わなければならない。「戦後」+「70年」が「戦後」ではなかったオキナワのこと。足し算そのものではない場所。この足し算ディスクールのために、戦争の全モメントを強いられてきた場所である。このディスクールを成り立たせるためには、「ニッポン」はオキナワを犠牲にしなければならなかったのだ。1972年の「ニッポン」への「返還」まで米国・軍の治政下にあり、「戦後」に新生した日本国憲法が及ばなかった場所である。この場所が強いられてきた現実への無関心が極まっていた・いるのが、「戦後○○年」を十年ごとに言って戦争を忘れようとする「ニッポンジン」であった。
かつての「ニッポン」の戦争の最前線とされ、かつ長き米軍治政から今に続く米軍基地問題。戦争の現場と記憶と影が同居した海の島の70年という時間は、今 、 さらにこの同居を強いられようとしている。「戦後」+「70周年」(+「ゆえにそこから先はもう次の戦争があってよい」)という他者喪失のディスクールの波によって進められていること。「ニッポン」政府と米軍によるオキナワ普天間米軍基地の同じオキナワ辺野古 への移設=新設、である。現地ネイティヴのいのち、海と森の動物のいのち、植物のいのち。その声を聴いて大切にすることのできない「ニッポン」の「政府―政治―経済」である。
去年2014年の閣議決定から2015年今夏の衆議院で強行採決を経て可決(7月16日)、現在参議院に場を移した安倍内閣の政治による「戦後」+「70年目」の行動。それが「集団的自衛権」を言う安保法制案である。
そこで曖昧に隠されかつ少しずつ露わにされ始めた「国際情勢」なるものも、やはり「戦後」+「70周年」という名のディスクール(「これまでと変わりつつある東アジア情勢」)の波によって、非常に単純に洗われ求められた「国際情勢」である。「外部」からの危険のみが強調され、平和憲法が無理やり解釈変更され、深き海でつながる庶民のいのちを深い観点から慎重に大切にすることはない。「コクミンの生命と財産が危ない」と叫ぶ「ニッポン」の「政府―政治―経済」。 反対に東アジアの庶民は、海の向こうに山の向こうに川の向こうに、自分と同じ庶民が生きていることを想像し確認しなければならない。
例えば1952年の木下恵介監督「日本の悲劇」は真摯な映画だが、ドメスティックな映画であり、「戦後」「ニッポン」のなかの感覚の象徴だろう。戦争の被害者としての庶民=自分たち「ニッポンジン」だけが主題である。海の向こうの庶民の被害と「悲劇」に無想像であり無関心であることを、進められかつ自発的に実践した「ニッポン」庶民。
しかしそうであるなら、海をつないでそこから脱し、他者のいのちを想像し確認することが可能なのも、庶民でしかあり得ない。それは自分だけの日常的な課題だから。庶民こそは必ず自分のみで自分を生きながら、自分と同じように生きる他者のことをも知っているはずだから。
「外部」からの危険と言うよりも、本当に大きな危険はどこにあるのか。それは「ニッポン」がたどった近代史の道が教えるはずなのだ。
この内閣と政治の行動が世界の庶民と地球の深く青き海を覆ってしまえば、もはや「戦後」+「何十周年」どころではない。来たるべき戦争のために、今後はどこまでも「戦前」となるだろう。
かくして「ニッポン」は果たしていつ「戦後」であったのか? 果たして今後いつ初めて「戦後」になるのか?
「戦中」から透徹した冷めた眼線で「ニッポン」を見つめていた作家がいる。
石川淳。
そのころ狂熱に湧いた「政府―軍団―政治―経済―誘導されかつ自発的であった庶民」によって、あらゆる戦争のモメントを造りだした軍歌。そのように街のあちこちで歌われる軍歌に対して嫌気のさした果敢なるエネルギイの言語。それが、石川が1938年に発表し発禁処分にされた小説「マルスの歌」。「マルス=火星=戦争」に抗う、暗い太陽の抵抗言語がここにある。
(ああ、またあの歌があそこでもここでも、さっきも今も、鳴る)、、、というふうにあの時を刻印する石川。
さらに、この小説にはさらに気になる箇所がある。語り手は映画館のなかで、一年前の1937年に始まる「日中戦争」の戦場を映したニュース映画を見ているらしい。「壮丁」とは日本軍兵士、「年長」者とは彼らの上官だろう。
そこは水辺に楊柳のある村落のけしきで、なかば壊された農家の前に笑い顔をした壮丁のむれがつどい、真中に一人年長と見えるのが椅子にかけて、これはとくにゆたかに髯(ひげ)をそよがせて笑いながら両手を前に突き出していたが、その逞しい(たくましい)手の下に小さいあたまを圧しつけられて、まさしく壮丁らとは国籍を異にするところの二人の子供が立っていた。それはまさに平和的な光景らしかった。だが、郷土の山河と他国人の笑のうちにあって、この二人の子供の顔には、涙とか憂鬱とか虚無感とか、絵に写せば写せるような御愛嬌な表情はなかった。かれらは切羽つまった沈黙の中で率直にNO!とさけんでいた。
こうして冷めた眼線は、ドメスティックな狂熱の「ニッポン」に対して嫌気のさす方角、だけを指し示すのではない。自分たちが侵略していった先の他者をも、作家は極細に眼差すのだ。
ここには、世界の庶民一人一人のいのちを最初で最後の事とする文学のいのち=ニンゲンの未来、が宿っている。
この夏「ニッポン」の首相による「70周年」談話(閣議決定された)は、終わりに近い箇所でこう言っている。「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、その先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」
しかし、<謝罪>とは何だろう? <自分の側のたどった歴史に関して、その被害を被った海の向こうの他者に対して、ニンゲンのいのちからの認識と説明のために対話を始める>行為ではないのか?
いまだ「戦後」を迎えていない「ニッポン」は、この行為を時間の連続の中で始めていないように思える。また、この行為へと至るための時間の瞬間と連続のなかで内省の立ちどまりを始めない限り、「戦後」もない。
戦争とは、他者たる相手を巻き込み、かつ他者たる相手と、いかなる関係であろうとも「関係」を発生させることだから。その「関係」に無関心のままでいることは、海を超えて平原を侵した軍団のように、なお庶民が強いられて動員され且つそののち自発的に動いてしまう「戦争」は続いている。
「ニッポン」の側が始めた戦争のなかの他者は、「果て」のない時間の瞬間と連続のなかに生き、記憶のために痛みながら、なお記憶を生きる。「70年目」などという区切りを生きはしない。
そうであるはずなのに、この「70年目」、「ニッポン」が過去の道をよそにして転換を図ろうとしている。
その行動は、つながった深き海の地平がもたらす東アジアの庶民どうしによる対話を目指さねばならないこれからの者のいのちに対して、不遜であり危険である。
自分たちの側がかつて始めた戦争と植民地のなかに立つ他者。その人びとのいのちを想像し思い続け、認識することなしに、いったいどこへ行こうというのか?
東京外国語大学准教授(中国近現代文学) 橋本雄一/Yuichi HASHIMOTO