【安保法案反対 特別寄稿 Vol.284】 「法の支配」をかなぐり捨てた安倍内閣 「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者 龍谷大学法科大学院教授・諸根貞夫さん

このエントリーをはてなブックマークに追加

1.安全保障関連法案の合憲論は集団的自衛権を肯定する立場から展開されている。しかし私見では、現憲法下で集団的自衛権を肯定することは不可能であると解するから、違憲と考えざるを得ない。

 安倍内閣は、従来の個別的自衛権のみを容認する「自衛権行使の3要件」(72年政府見解)を見直し、集団的自衛権の行使を可能とする「自衛の措置としての武力の行使の3要件」(「新3要件」)を閣議決定し、いわゆる安全保障法制を整備しようとしている。解釈変更の根拠としては、外的要件として安全保障環境の変化、法的根拠として砂川判決が挙げられている。

 前者については、米国の地位低下や周辺諸国の脅威の増大が指摘されるが、解釈の変更を正当化するためには、解釈を変更する側が、変更を支える具体的実証的かつ客観的な事実の存在を論証しなければならない。たしかに周辺には強かで手強い国や我々の常識がなかなか通じない国も存在する。しかしその脅威を抽象的に主張するのではなく、なぜ安倍内閣の今になって突然憲法解釈の変更が必要であり、従来の個別的自衛権では不十分で、実際には米国の戦争に加担することになる集団的自衛権が必要なのかを説得的に説明しなければならない。しかしながら、国民に対しその説明がなされているとは思われない。

 後者の砂川判決は、旧安保条約に基づく駐留米軍の合憲性判断を争点としていたが、最高裁は、日本に指揮権・管理権がない駐留米軍は憲法9条にいう戦力に該当せず、その駐留が一見明白に違憲無効とはいえないこと、高度の政治性を持つ条約は原則として司法判断になじまないことを判示しただけである。たしかに自衛権の存在や自衛の措置に言及した部分はあるが、本事案の争点を前提にすると、集団的自衛権を肯定するまでの判断は示されていないと解するべきである。さらに付言すると、この判決の翌年に締結された現行安保条約は、米軍の日本防衛義務を規定しているが、日本の米国防衛義務は定めていない。また日米共同防衛行動も日本が武力攻撃を受けた場合に限られるとされている。

 このように法理上も実際上も、集団的自衛権がすでに憲法で容認されていたと解することはおよそ不可能である。容認論者の理屈は我田引水に過ぎると言わざるを得ない。

————————————————–

2.安倍内閣によって「積極的平和主義」ということが言われているが、集団的自衛権行使の容認と結び付けて主張されているところからすれば、おそらくその本質は積極的に武力を使用する平和の実現、つまり「力による平和」ということではないかと思われる。しかし武力の威嚇やその行使は最悪の場合、人類「共滅」の核戦争を招くことにもなりかねず、またそれに至らなくても自然・社会環境を破壊するばかりか、人々の心に憎しみを植え付け、テロ行為など消えることのない対立を生み出すだけである。

 ここで重要なのは、敗戦を契機に日本が平和国家としての出発を誓った際の決意を想起することではないだろうか。それを憲法的に表現すれば、私たちは、自らの「平和のうちに生存する権利」(前文)を基本に据え、その権利を守るために国家に対しては、その義務として憲法9条(戦争放棄)の順守を要求し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように(前文)求めたということである。これらは一体不可分の関係にある。

 旧来の常識では、平和とは国家が政策として戦争をしていない状態(受動的・消極的な平和)と考えられていたが、私たちの憲法は、その常識を覆し、平和を常に実現されるべき価値として認め、それを国家の政策によっても決して奪われることのない人権、すなわち平和的生存権として認めた。ここにこそ、日本国憲法が示す新しい常識があり、立憲平和主義の「積極的」な意義がある。したがって、国家は、「力による平和」を否定し、困難はあるにしても粘り強く、常に平和的手段を前面に出し平和の政策を積極的に実現する姿勢を堅持することが求められているのであって、それこそが憲法本来の「積極的平和主義」と言うにふさわしいのである。そのように解すると、平和的生存権と一体不可分の関係にある憲法9条は、まさに世界平和の実現にとって先進的な意義を有する条項であり、改正されるべきではないことになる。

————————————————–

3.いま国会では理に背き知に反する言説が飛び交っている。そこには、数は力、力は正義という驕りが潜んでいる。憲法改正権力は国民に付与されているにもかかわらず、一内閣の解釈で、その解釈権の範囲を超えた憲法改正にも等しいことが公然と行われている。従来「違憲」とされていた事項を「合憲」と解釈変更する場合、特にその変更は、統治権力を縛ることを原則とする「立憲主義」の観点から厳格に吟味されなければならない。なぜならば、合憲を違憲とする場合とは逆に、違憲とされていた事項を合憲と解釈する限りで権力に対する従来の縛りが緩和される効果を有するからである。しかし、72年の政府見解を修正し、集団的自衛権を容認した先の閣議決定に際してそのような吟味が厳格に行われたとは考えられない。

 現状を眺めるとき、民主主義国家には当然の「法の支配」の原則は退けられ、前近代的な「人の支配」が復活しているかのようである。これでは、専断的恣意による政治を禁止する「立憲主義」の原理が無視されるのも故なしとしない。

 憲法および安保関連法案をめぐる安倍内閣の一連の行為は、例えるならば、伝統的な木造平屋建ての日本風家屋の上に無理やりコンクリート造りの二階を増築するようなもので、誇りにしてきた建築美を損なうばかりか、家屋倒壊の危険すら招く乱暴な目論見であると評することができるだろう。このような無謀なリフォームは即刻やめさせなければならない。

(諸根貞夫 龍谷大学法科大学院教授)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ