私は、大学でプロレタリア文学の研究をしています。プロレタリア文学というと、労働問題をテーマに扱った文学というイメージをお持ちの方が多いかと思いますが、有名な小林多喜二「蟹工船」を読めば明らかなように、そこで扱われる労働問題の多くは、当時、帝国日本が推進していた戦争と大きな関わりを持っていました。
近代国民国家の大きな存立理由の1つは、戦争を遂行するということにあります。大日本帝国も例に漏れず、武力を用いた覇権拡張により、列強諸国の仲間入りを目指しました。
これに対し、プロレタリア文学者たちは芸術により労働者階級の覚醒を促し、階級闘争を通して社会そのものの変革を目指していました。それは、帝国主義という戦争による国家の覇権拡張を否定し、あらたな社会のあり方を模索する試みでもありました。「蟹工船」に限らず、実はプロレタリア文学の多くは反戦・非戦の文学でもあったわけです。
プロレタリア文学における抵抗運動は、しかし、当局による苛烈を極める弾圧により壊滅を余儀なくされました。
そして、現在、私たちは再び戦争推進をめざす政府という巨大な権力に立ち向かう抵抗運動の只中にあります。
しかし、戦前のプロレタリア作家たちと現在の私たちの運動には大きな違いがあります。それは戦前では手にすることがかなわなかった様々な武器を、私たちは持っているということではないでしょうか。言論の自由は言うまでもなく、それを行使するためのインターネットをはじめとした各種メディア、そして何より日本国憲法9条です。
憲法9条は、戦争を推進する暴力装置としての国民国家のあり方を根底から問いなおし、オルタナティブな社会のあり方を世界に向けて提示しているのです。それは反戦よりももっと強い、戦争そのものの存在を否定する非戦の精神を明文化したものであり、そして、プロレタリア作家たちが追い求めた新たな社会の可能性そのものなのです。
憲法9条によってもたらされる、このあらたな社会のあり方の可能性を次の世代に手渡すために、私は安保法案に反対します。
(鳥木圭太 立命館大学非常勤講師)