【IWJブックレビュー】【決定版】広島・長崎の原爆写真集が発売「命がけで残した先輩たちの思いを継ぐ」――原爆投下から70年、薄れゆく戦後の記憶と図られつつある風化に抗う

 原爆投下から70年の節目をむかえた今年、「反核・写真運動」が『広島原爆写真集』『長崎原爆写真集』(勉誠出版、2015年8月6日)を出版した。IWJにもご恵贈いただいた。

「反核・写真運動」 (監修), 小松健一 (編集), 新藤健一 (編集)
決定版 広島原爆写真集決定版 長崎原爆写真集
勉誠出版、2015年8月6日



 「反核・写真運動」は1982年、核兵器廃絶を求める552人の写真家などが集まって発足。以降、広島、長崎の原爆写真の収集、ネガの複製保存、展示会などの活動を行っている。

 今回出版された写真集には、「反核・写真運動」が収集してきた原爆写真が約830点(広島417点、長崎412点)収められており、多くの未公開写真も含まれている。生々しい写真は時系列順に並べられており、「広島原爆写真集」は、原爆投下の2分後に撮影された大きな爆煙の写真から始まる。

【広島】

▲爆心地から6500m。広島市の東北東約7kmの水分峡(みくまり)峡へ遊びにいっていて広島市上空にB29が1機、落下傘が浮いているのを見た。間発閃光、飛行機は猛スピードで逃げる。異様な色を放って雲の柱がたちのぼった。轟音と爆風がきた。2枚撮影の1枚目。2枚目は雲が画面いっぱいに広がり、形がわからなかった=1945年8月6日、広島県安芸郡府中町水分峡頂上から(撮影:山田精三)

▲下流の元安橋から被爆後、初めて撮影された広島県産業奨励館(原爆ドーム)=1945年8月(撮影:松重美人)

▲広島の爆心地から70m、西向寺の墓地から広島県産業奨励館(原爆ドーム)を望む=1945年9月中旬(撮影:文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会)

▲宿舎の海田日本製鋼所からトラックで広島市に入った佐々木忠義、相原秀雄ら約10名の広島・長崎学術調査団と広島産業奨励館(原爆ドーム)前を紙屋町方面に向かう広島電鉄市内電車。付近の電車軌道は左官町―八丁堀間が復旧した=1945年9月7日(撮影:林重男)

▲広島大芝国民学校救護所の理科教室が病室。板の上にムシロを敷き、布団に横たわる母と娘=1945年9月中旬(撮影:菊池俊吉)

▲爆心地から500mの広島市本通りから、爆心地方向を見る。余燼がまだ熱かった。軍隊、消防団、警防団が出て道路の取り片付けをしていた。同じ場所を10月に写した佐々木雄一郎の写真と比較してみると直後の壊滅状況がよりよくわかる=1945年8月7日(撮影:岸田貢宣)

【長崎】

▲長崎市香焼島(現在の香焼町)にあった川南造船所事務所から爆裂15分後に撮影した長崎の原子雲。地上からの写真としてはもっとも早い=1945年8月9日(撮影:松田弘道)

▲県道から少し東に入った山王神社参道入口の一ノ鳥居。爆風方向と平行に立っていたため、倒壊をまぬがれた。爆心地より南700m=1945年8月10日昼過ぎ、長崎市岩川町付近(撮影:山端庸介)

▲幼児を背負い、ぼう然とたたずむ女性。抱えた鍋は、亡くなった家族の遺骨を拾うためだったと後に語った=1945年8月10日、長崎市(撮影:山端庸介)

▲浦上川の稲佐橋対岸から見た長崎造船所幸町工場=1945年8月20日、長崎市(撮影:森末太郎)

▲炊き出しのおにぎりを持つ少年。爆心地から南1.5km=1945年8月10日朝、長崎市井樋ノ口町[現在・宝町](撮影:山端庸介)

▲浦上天主堂は1925(大正14)に建立、双塔の長さは26mに及び東洋一の壮大さを誇っていたが原爆で廃墟となった=1945年9月上旬(撮影:松本栄一)

 今に残る原爆写真の撮影者は、わずか47人しかいない。当時はカメラが今のようには普及もしていなかった。原爆写真は写真屋を営む市民が撮影したケースも多いという。

 写真集を編集したフォトジャーナリストの小松健一氏は、「戦時中、広島は陸軍最高軍事機密の場所で、長崎は海軍の長崎造船とかもあった場所。これらの施設は、一番の軍事保持の対象となる場所で、カメラ持っているだけでも、えらいことになる。そんな中で撮った、貴重なものだ」と話す。

 戦後、米進駐軍の検閲を恐れた人々は、長崎、広島で撮影した写真や資料を燃やした。しかし、今に伝わる写真の撮影者たちは、厳しい検閲下でも命がけでフィルムを隠し持っていた。だからこそ、現代を生きる我々も当時の被害実態を知ることができる。そう小松氏は説明する。

 今回の写真集では27人の撮影者の写真が使用されているが、ひとりを除き、ほとんどの撮影者がすでに亡くなっている(うち1人は消息不明)ため、掲載写真がいつ、どこで撮られたものか、ひとつひとつ調べあげるのは途方もなく膨大な作業だった。

それでも誰かが記録しなければならない。日本は世界で唯一の被爆国で、広島、長崎の原爆被害以外に、おぞましい原爆被害の実態を示す資料はない。小松氏は「命がけで残した先輩たちの思いを継いでいかないといけない。それが我々は使命だと思っている」と語った。

さらにこの間、核兵器は恐ろしい進化を遂げている。

 米露の核兵器開発競争を経て、旧ソ連が製造した史上最大の水素爆弾「ツァーリ・ボンバ」は50000キロトンの破壊力があると言われている。広島、長崎を破壊し尽くした原爆はそれぞれ15キロトン、21キロトンに過ぎない。

 再び戦争で核兵器が使用されれば、広島、長崎の比ではない犠牲を生む。だからこそ、広島、長崎の原爆被害を世界に広く伝えなければならない。こうした考えから、『広島原爆写真集』『長崎原爆写真集』にはひとつひとつの写真に英語のキャプションもつけられている。

図られつつある風化、薄れゆく戦争の記憶

 核兵器の非人道性を率先して世界に発信すべき立場にある日本だが、いま国会では、再び日本を「戦争のできる国」にする安保関連法案の審議が進められており、その中では日本と核兵器の関わりにも議論が及んでいる。

 中谷元(げん)防衛大臣は8月5日の国会審議で、他国軍への核兵器の運搬について「法文上は排除していない」と認めた。翌6日、広島原爆の日の紙面には、「広島原爆投下から70年」の見出しとともに「核兵器も輸送可能」の見出しが並んだ。中谷防衛大臣は「非核三原則があり提供はありえない」と弁明したが、それも説得力に欠ける。

 原爆投下からちょうど70年をむかえた6日、広島市では平和記念式典が開かれた。今年も安倍総理が挨拶したが、なぜか安倍総理は、昨年は触れた「非核三原則」に言及せずにスピーチを終えた。少なくとも1994年以降、歴代首相が毎年必ず言及してきた非核三原則のくだりを、安倍総理は大事な節目である今年、わざわざ除外したのである。

 非核三原則撤廃を目指す意向を暗に表明したのか。振り返れば安倍政権は昨年4月、平和主義にもとづく「武器輸出三原則」を撤廃し、包括的な武器輸出を推進する「防衛装備移転三原則」を制定したばかりだ。平和主義は年々、形骸化へ向かっている。

 被爆者の平均年齢は2015年3月末時点で80歳を超え、高齢化が進んでいる。戦争体験者も減少し、日本の戦争の記憶は薄まる一方だ。安倍総理がまもなく発表する「戦後70年談話」は、「侵略」を明記しながらも「お詫び」には言及しない可能性があるという。

 戦争の記憶の風化が図られている。

 日本は平和国家としての歩みを止め、このまま「新たな戦前」に突入するのか。歴史的な分岐点にさしかかっている。

 

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