百人百話

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百人百話はIWJの提供するインタビューシリーズです。

2021年3月18日、新たなテキストを追加しました。

「3.11」から10年

 東日本大震災と福島第一原発事故から10年。これまでIWJは様々な視点で東日本大震災と福島第一原発事故について報じてきました。

 しかし、事態は今も変わっていません。

 福島第一原発のデブリは溶け落ちたまま、廃炉の見通しは立たず、再度の水素爆発の可能性もありえます。

 2021年2月13日に起きた福島沖を震源とするマグニチュード7.3、最大震度6強の大地震のように、10年経っても東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震の余震が続いています。この先、もっと震度の大きな余震が起きたとしてもおかしくないと言われています。

 「3.11」は決して過去の出来事ではなく、現在進行形の危機的事態なのです。

 地震と原発事故の複合震災に脅かされているのは、事故を起こした福島第一原発周辺地域や福島、東北地方だけではありません。世界一の地震の巣である日本列島各地に60基(廃炉も含む。建設中・計画中は含まない)もの原発が存在していることを忘れてはいけません。

 この問題は、どの地域に住んでいる人でも、どんな世代に属している人でも、他人事ですませることのできない問題です。地震と原発事故の複合震災は、いつ自分の身にふりかかるかわからない重大なリスクと言える。そしていったん発災すれば、終わりのない危機が続くのです。

 「3.11」の経験の記憶を忘れてはいけません。風化させてもいけません。

 「3.11」を被災地で経験した方々の記憶・記録は、日本人全員の教訓となる「公共財」として保全され、再活用されるべきとIWJは考えます。

 この特集ページでお伝えする「百人百話」は、岩上安身が2011年3月11日の東日本大震災、津波、それに続く東京電力福島第一原発の事故を経て福島にとどまる方々、福島を離れる方々100人に、それぞれの思いを丁寧に聞き取ったインタビューシリーズです。福島に暮らす人や、福島を離れていたからこそ苦しんだ人たちの、生の声が詰まっています。

はじめに 『百人百話~故郷にとどまる、故郷を離れる、それぞれの選択』より

 昼の陽射しが翳り、湿り気を帯びた夜の気配が肌にまとわりつく。2011年夏。逗子。潮騒の聴こえてきそうな、海辺の小さな映画館が併設されたカフェ。三宅洋平氏とのトークイベントのあとの懇親の場で、ひとりの年配の女性が私に近づき、話しかけてきた。

 「岩上さん、どうしても聞いてほしいことがあるんです。私、どうしたらいいんでしょう…」

 初対面なのに、切迫した口調である。お年の頃は60代後半。聞けば、逗子に暮らして30年余り。子どももすでに成人しているという。悠々自適の暮らしをしていたはず、だった。5ヶ月前、あの3・11までは…。

 「私の実家は、大熊町なんです。実家は原発のすぐ近くにあって、お墓もあちらにある。父も、母も、亡くなった弟も、みんなそのお墓に眠っている。どうしたらいいんでしょう。お墓参りにも行けない。お墓を移すことはできないんですか? お墓の中のお骨を出して、持ち出して他へ移すこともできないんですか?」

 意表をつかれた私は、あぁ、と思わず声にならない声を上げた。福島第一原発から300km以上も離れた海辺の街で、故郷・福島を想い、悲しんでいる人がいる。墓とは、原発事故による被害の、盲点だった。

 故郷には、父母や兄弟姉妹や祖父母らの眠る墓がある。私たちはそれを自明のことと思っている。故郷に帰れば、墓参りをするのは当たり前のことで、墓はじっと黙って待ってくれている。そんな当たり前のこと、自明のことが、当たり前でなくなってしまったのだ。あの、3・11の事故によって…。

 「…実は私の姉が、重い病いで今、危篤状態なんです。もってもあと一週間と言われている。姉は、浪江町に嫁いだのですが、浪江も今回の原発事故で避難しなきゃならなくなっている。亡くなった旦那さんが眠るお墓が浪江にあるんですが、そこに入れてあげることができない…」

 …お姉さんご本人は、原発の事故とまき散らされた放射能によって、故郷には戻れないということをご存知なんですか?

 私の問いに、その女性は涙を浮かべて首を振った。

 「姉はわかっていません。旦那さんと同じお墓に入れると思っているんです。だからかわいそうで…。姉をどこに葬ってあげたらいいのか、現実的な問題なんです…」

 福島第一原発から20キロ圏内の警戒区域から、原則として、何も持ち出すことはできない。あらゆるものが放射能に汚染されているためである。墓に埋葬されているお骨も例外ではない。一時帰宅を許された折に、墓参りは可能ではある。ただし、被曝は避けねばならず、防護マスクを含め、完全防護の必要性があるだろう。そう何度も、気軽に、心安くお墓参りに行けるわけではない。気の毒に思いながら、そう私が話すと、彼女はため息をつきながら、「そうだろうと思ってました。でも、確かめたかったんです」と言った。

 問わず語りに、彼女は故郷の大熊町について、そして故郷を舞台にした家族の物語について、語った。自分たち家族のもともとの故郷は九州で、長男である弟が福島第一原発で働くことになり、その縁で両親含めて福島へ移住したこと。貧しかった大熊町が、原発の建設に伴う交付金によって豊かになっていく様子。弟も、その息子も原発で働き、自分たち家族も恩恵を受けて来たこと。そして今は、家も土地も仕事も、思い出も、墓すらもすべて失ってしまったこと。

 「私は、神奈川に嫁いで来ましたから、生活の場はこちらにはあります。だから嘆くのはお墓のことくらいですむけれど、あちらに残っている親せきは…。親から家を引き継いだ弟に、子どもたちがいる。今、避難していますけれど、戻れないんでしょう? これから皆、どうなることか…心配です」

 人の営みの記憶は、すべてどこか特定の土地、場所と結びついている。その土地から離れて存在しているのではない。そうした、人生の思い出が刻み込まれた土地が汚されてしまった、そこにはもう戻れないのだろうという痛切な痛み。原発事故は、その周囲の土地の過去と未来を、ともに奪ったのだ。

 3.11直後から、私は、自分が立ち上げたばかりのIWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル)というインターネット報道メディアの、ごく少人数の仲間たちとともに、東京電力や原子力安全・保安院の記者会見を、インターネットのライブストリーミングで、文字通り24時間中継し続けた。原発のプラントが、今、どうなっているかは、当時、日本に住む人々の最大の関心事だった。放射能の拡散とその影響について、深刻な事態に陥っているとの理解が広がったのは、それからやや遅れてのことである。「ただちに健康に影響はない」という枝野官房長官(当時)の言葉を鵜呑みにして、避難が遅れた福島の人々が、実は自分たちはスピーディ(SPEEDI)すら公開しなかった政府の無作為によってむざむざ被曝させられたのではないかと気づき始めたのも、春を過ぎた頃からだった。

 日本国内に原発が何基あるのか知らなかった人々が、自分たちの無知と無関心をどれだけ悔いたことだろう。

 「多くの人々が、「安心・安全」を強調する原発推進体制寄りの専門家を起用し続けたテレビや新聞に失望し、真実は何かを求めて、ネットに殺到することになった。私たちは、その求めに応じるべく、東電会見だけでなく、被災者による対政府交渉や様々な集会や講演、デモなどの一次情報を、既存メディアのような恣意的な編集・加工を施すことなく、連日、伝え続けてきた。

 たが、私たちにはまだ伝え足りなかった言葉があった。拾い上げきれなかった声があった。逗子の夜、涙まじりに家族と故郷の話を物語るその年配の女性の訴えに耳を傾けながら、そう気づかされた。

 急流のように勢いよく流れる情報の早瀬は、「ニュース」になる。人々の「叫び」もまた、「ニュース」となりうる。しかし、人々の「ささやき」は、あるいは低い声で静かに語られる「つぶやき」は、「ニュース」には、まず、ならない。だが、「ニュース」にならない無名の人々の日常に根づいたドラマを理解せずして、福島で起きている事態を理解することも、福島の人々に寄り添うこともできない。

 「福島では、その夏頃までには、除染に期待しながら、故郷にとどまろうとする人々と、残留放射線による被曝から逃れるため、故郷を去ろうとする人々と、ふたつに分かれはじめていた。また、福島の外からコミットする人々も、避難を勧める人々と、除染を手伝おうとする人々とに大別されていった。

 福島は二分され、不幸なことにその両者の間の一部では、いがみ合いも起きていた。避難する人々の中には、故郷にとどまろうとする人から「裏切り者」呼ばわりされた人もいたし、その反対に、避難を勧める人々の中には、福島にとどまる人を「なぜ子どものことを考えない?」と非難する人もいた。原発事故によって被害を被った者同士が傷つけあうのは、胸が痛む光景だった。

 しかし仔細に見ると、それぞれに抱え、背負っている事情は様々で、単純に二分できるものではないことに気づく。

 福島にとどまる人の中にも、放射能に関心のなほとんどない人もいれば、避難したいと願っているのに、様々な事情でできない人もいた。避難した人の中にも、避難生活を続けていけるだろうか、福島に帰ったほうがいいのではないかと迷っている方もいた。それぞれが抱えている事情を、丁寧に聞き取り、耳を傾け続ける必要がある、と思われた。

 スレレオタイプ化して理解することは、単純な肯定か否定かという、極端な結論しか導かない。

 私は、ベルリンの壁が崩壊した1989年に、ソ連へ初めて足を踏み入れた。全体主義体制のもと、ソ連には均質な「ホモソビエチカ=ソ連人」しか存在しないというプロパガンダ(ソ連信奉者からも、ソ連に対する批判者からも、共通して差し出されていた)が真っ赤な嘘であるという事実を、その時にこの目で見てとった。ソ連には、多様するほど多様な人々が存在していた。その多様さを表現するために、スタッズ・ターケルというアメリカ人ジャーナリストが多用していた「一人称ひとり語り」という手法を用いて、ソ連人百人に聞き取りをし、『ソ連と呼ばれた国に生きて」(宝島社刊)というインタビュー集を、他の3人の共著者とともに著した。

 その時の手法を再び用いてみよう、と私は思い立った。

 今度は、福島の人々百人に、自らの人生と、故郷・福島と、3・11の被災体験について語ってもらおう。それもまずは、インターネットの動画で、と。インタビュアーとしての私は後景に下がり、登場する福島の人々の語る声、言葉、自身の物語が、耳を傾けようとする方々の目と耳に、できるだけダイレクトに届くようにしよう。

 福島の老若男女、故郷にとどまる人も、離れる人も様々に、それぞれの物語を聞き取る旅がこうして始まった。ひとりのインタビューに費やした時間は、2、3時間はざらで、中には連続して8時間インタビューし続けたこともあった。3人のうちふたりは、話しながら、涙を流された。

 こうして2011年11月7日に、IWJのチャンネル9で配信をスタートしたのが、『百人百話~故郷にとどまる、故郷をはなれる、それぞれの選択」というインタビュー・シリーズである。

 今回は、その第1期にあたる29人の方々を中心に、書籍としてまとめることになった。第1集を編むにあたり、三一書房の小番伊佐夫さん、高秀美さんには大変お世話になった。記して厚く御礼を申し上げたい。また。IWJの若いスタッフの面々にも、撮影・編集・配信・文字起こしなどで大いに力を貸してもらった。

 そして、なにより私のインタビューに応えてくださったすべての方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げる。本当にありがとうございました。未曽有の惨事にあって、悩み苦しむ人々の、故郷への想いを聞く旅は、まだ途上である。

2012年2月28日
岩上安身

百人百話の配信について

3.11の大震災・津波、またそれに続く東京電力福島第一原発の事故を経て
福島にとどまる方々、福島を離れる方々、
岩上安身が100人の方々それぞれの思いを丁寧に聞き取ったインタビュー映像を、IWJでは、100日間かけてインターネットで配信しています。

IWJインタビューシリーズ 百人百話の第二集が発売されました。
→ 書籍のご案内

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第二期告知CM

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2011年11月7日から配信開始し、第一期、第二期に分けて第五十九話まで配信しました。
現在、第三期分(第六十話〜第百話)を取材・制作中です。
準備ができ次第、平日(月~金曜)毎日、PM9:00から配信を再開予定です。

また、2012年3月に発刊された書籍版第一集では、インタビューを文章で読めるようにしただけでなく、お話しいただいたそれぞれの方のその後にも触れています。
大手メディアが伝えられない生の声、「被災者」「福島の人」とひとくくりにできない それぞれの立場の方の思いをお聞き下さい。