映画『ひろしま』東海村上映会の講演部分(講演:肥田舜太郎氏、堀潤氏、小林一平氏ほか) 2013.7.5

記事公開日:2013.7.5取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・関根/奥松)

 2013年7月5日(金)12時より、茨城県那珂郡東海村の東海文化センターで、映画『ひろしま』の上映会と、肥田舜太郎氏、堀潤氏、小林一平氏、東海村住民(村上達也東海村村長が欠席のため)による講演会が開かれた。医師の肥田舜太郎氏は、広島の原爆で被爆しながらも、96歳の今なお健在であり、その長生きの秘訣を語った。また、広島の被ばく者を多く診てきた経験から、「福島の被害は、まだ序の口だ」と警告した。後半は、ジャーナリストの堀潤氏が、自身が体験した、アメリカのサンオノフレ原発(廃炉決定)に関するパブリックミーティングの様子や、これからの脱原発運動の課題などを語った。

■Ustream録画
※アーカイブは講演会のみとなっております。
・1/3(19:57~ 1時間27分)

・2/3(21:24~ 1時間31分)

・3/3(22:56~ 40分間)

  • 内容
    肥田舜太郎氏講演会、ディスカッション(堀潤氏 × 東海村住民 × 小林一平氏)、堀潤氏講演会

 映画『ひろしま』の第一回目と第二回目の上映の間に、講演会とディスカッションが行なわれた。まず、映画プロデューサーの小林一平氏(映画『ひろしま』助監督の子息)が、肥田舜太郎氏を紹介した。肥田氏は「被爆当時、広島、長崎の原爆による内部被ばくや、放射線の危険性については、まったくわからなかった。まして、原爆は軍事機密なので、被爆者も機密扱いになり、医者は、彼らを診ることはできたが治療はできず、記録を残すことや公表すること、他言すら禁止された。占領軍から『違反すると重罪だ』と言われていた」などと、終戦当時の状況を説明した。

 「今、日本で放射能汚染されていないところはない。逃げても無駄だから、住むための方策を考えるしかない」と語る肥田氏は、「自らが被爆者だが、長生きしている。そのためには、病気にならないように生きること。自分たちは、長生きする方法を探るため、長寿の人たちに聞き取り調査をした。その結果、長生きのコツは、食べ過ぎないことだった」と、その秘訣を教示した。

 また、肥田氏は「日本人ほど、自分の命に無責任な国民はいない。具合が悪いとすぐ医者に行く。しかし、赤の他人に何がわかるのか。そして、このような国民性にしたのは、明治政府である。天皇制を強く押しつけ、人々にものを考えさせなかった。お上に考えを預け、自分では何もしない国民を作った」と痛烈に批判した。

 続けて、「義務教育までの子どもは、国の負担で一斉疎開をさせるべき。無理なら、ひと月だけでも保養に出すことだ。福島第一原発事故の発災直後、アメリカ政府は『福島から80キロメートル離れろ』と在日アメリカ人に指示を出した。これは、放射能によるがん発症をちゃんと研究した距離。日本は20キロ圏内の避難指示。この差は、政府の国民に対する責任感の違いだ」と指摘した。

 さらに、肥田氏は「アメリカが望んでいるのは、戦争。もう、テレビも車も売れない。だから、兵器を売りたくて仕方ない。今は、大量消費、大量生産でお金を生んできた資本主義経済の末期だ」と断じた。そして、「皆さんは、これから成人病という形で発症するだろう。自分たちがこういう国にした結果なのだから、それは仕方ない。しかし、これから生まれてくるひ孫、玄孫のためには、原発の火を止める責任がある。自分は、広島を見てきたからわかる。今の中学生が高校生になる頃には、どこか具合が悪くなっているだろう。今の、福島の被害は序の口だ」と闊達な口調で警鐘を鳴らし、講演を終えた。

 次に、元NHKアナウンサーの堀潤氏、小林氏、そして、出席予定だった東海村の村上達也村長の代わりに、東海村で代々商売を営むセイミヤさん、東海第二原発の再稼働を止める運動をしている、5歳の子を持つオカモトさんの4人で、ディスカッションを行なった。

 小林氏は「原爆体験孤児の願いを実現させた映画『ひろしま』は、1952年に、全国50万人の先生が1人50円づつ出資して作られた。しかし、公にはほとんど上映できなかった。2008年に広島で再上映し、上映運動が盛り上がってきたら、福島で原発事故が起こってしまった」と話した。

 オカモトさんは「東日本大震災の後、マスメディアを信じなくなった。地元で原発の話をすることは、はばかられる。東海村には、高レベル放射性廃棄物の集積場もある。原子力複合災害が起きたら終わりだ」などと、原発立地地域に住む危機感を表明した。

 堀氏は「マスコミでは、ニュースの内容は合議制で決まる。現場の意見と放映内容は一致しない」と述べた。また、「福島の楢葉町では、原発が危険だという情報が、3.11当日に伝わり、翌日、町民全員の7800人が、いわき市に避難しようとした。しかし、通常20分ほどで行けるところが8時間かかった。有事の際の情報網、交通手段などが、まったく整備されていない」と語った。

 それを受けてオカモトさんが、「一度却下された再稼働中止の請願書を、再度、村議会に提出した。その時は『有事の際の避難手段の整備を進めるべき』など、請願内容を工夫した」と話した。

 堀氏は「好き嫌いで反対運動をしたら、疲れて長続きしない」と述べて、アメリカ留学中に取材したサンオノフレ原発が、住民参加のパブリックミーティングから廃炉に至ったことを話した。また、「NHKにいた時、全体を包む空気の中で、物事が決まっていった。怖いのは、誰かが言ったわけではないのに、そうなっていく世界だった」と語った。

 セイミヤさんは「ある研究所で放射能漏れがあって、某テレビ局の取材クルーが、村の朝市に来た。住民は、それが放射能関連のインタビューだと知ると散り散りに逃げた。つまり、立地地域の住民でも、原発など考えたくない、ということ。だから、原発事故が起きてしまったことには責任があると思う」と感想を述べた。

 次に、堀氏の講演に移った。堀氏は「事故の記憶は風化していくが、『原子力災害は絶対、終わらない』とスリーマイル事故の経験者が語っている。これから、被ばくした人たちのケアを考えなければいけない」とした上で、「大事なのは、個人の発言や、価値観を排除する空気があってはならないこと。原発事故から2年半たち、状況の不可視化が進んでいる。被災者たちが『もう反対するのに疲れた、自分たちが我慢していけばなんとかなる』と言い、問題が外から見えにくくなっている。聞く支援、ということも必要だ」と語った。

 続けて堀氏は、アメリカで体験したパブリックミーティングについて語った。「住民たちの、具体的な交渉条件を引き出すディベート能力に感心した。日本では、『市民メディアは育たない。マスメディアには勝てない』と言われている。なぜなら、(発言が)常に個人的意見に集約されてしまうからだ。そうではなくて、事実を伝えることがメッセージになる、ということを知るべきだ」と持論を述べた。

 質疑応答で、「堀氏が制作したドキュメンタリー映画に、カフカの『変身』の一節が使われていた。その理由は」という質問が出た。堀氏は「小説の不条理さが、現在の原発事故にも通じる」と答え、「アメリカ留学から戻ると、すっかり日本は変わっていた。人は日常を取り戻すと、忌まわしい過去やストレスのある記憶をないものにしようとする。官邸前の原発再稼働反対デモの映像も、1年たつとすっかり色あせて、資料映像のようだ」と話した。また、「原発の不条理以外には、どんなことに疑問を感じるか」と問われた堀氏は、「今の国民の生活自体や、経済もおかしい」と語った。

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