【岩上安身のツイ録】 663年、白村江の敗戦のあと、日本が受容した唐風文化の謎 2013.1.13

記事公開日:2013.1.13 テキスト
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 虜になるような文体の持ち主というのに、時々出くわす。有名無名問わず、である。鈴木治という方がいる。美術史家らしいのだが、『白村江〜古代日本の政敵と薬師寺の謎』という著書を手にするまでそのお名前を存じ上げなかった。

 663年の白村江の敗戦に関心があり、題名に惹かれて手にとったのだが、頁をめくりうちに、軽い興奮を覚え始めた。敗戦後、戦勝国である唐との間に円満な関係が築かれた、という通説に、そんなに甘い話があるものか、とずっと疑ってきた、僕の懐疑心と問題意識がぴたり重なったからである。

 白村江の敗戦とその後の壬申の乱が無関係であるとは思えなかったし、その時代から天皇号や国号が用いられ、記紀が編纂され、日本という国家意識がスタートする、そんな画期と一大敗戦が結びつかないはずはないとずっと疑ってきた。第二次大戦の敗戦とその後を参照すれば明らかだ。

 著者の鈴木氏は、白村江の戦いのあと、唐から2千人もの人員を擁する使節が日本に「上陸」した史実を指摘し、そこにゆるやかな唐の「支配」をみてとる。

 日本は、唐の律令制を整え、絢爛たる天平文化の花を咲かせる。それは日本が主体的に選びとったというより、敗戦国日本が、唐の圧倒的な影響下にあって、建前としては独立国としての面子を使っていたものの、実質的には保護国化していたのではないか、という仮説を展開するのである。

 言うまでもなく、そこに第2次大戦の敗戦後、サンフランシスコ講和条約調印を経て、形式的には独立国となった戦後日本の姿が重ね合わされている。

 歴史を考えるとは、今を考えることだ。「戦後」という現代を考えるなら、白村江の敗戦後、という天平は、霞のかかる、はるかな古代のロマンではなく、あの時代の世界大戦とグローバリズムの大波をかぶったリアルだと感得される。大事なことは、見たくもない敗戦とその後の始末を直視すること。

 バラパラとめくるだけで、ああ、この方の話を聞いてみたいなと思い、奥付けを見ると、1905年生まれとある。え、100歳を超えている?と思い、見直すと、77年に亡くなられている。そんな昔の方とは、思えなかった。すぐ近くにいるような気配がしたのだが。

 ところで、昨夜、豊下楢彦氏の編著である安保条約の論理 を読んだのだが、そこに「中立主義と吉田の末期外交」という論文が所収されている。達者な筆遣いに、ベテランの学者かと思ったら、筆者の池田慎太郎さんという方は1973年生まれという。今度は若くて驚いた。不思議なものだ。

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