IWJで連続インタビュー中の『日本ナショナリズムの歴史』著者・書籍編集者・前高文研代表 梅田正己氏が第61回JCJ賞を受賞!「出版ニュース」に掲載された寄稿を全文掲載! 2018.9.27

記事公開日:2018.9.27 テキスト
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 岩上安身がIWJでこれまでに4回インタビューを続けている、書籍編集者で前高文研代表である梅田正己氏の著書、『日本ナショナリズムの歴史』(高文研)全4巻が、毎年すぐれたジャーナリズム活動に対して日本ジャーナリスト会議が選定する第61回JCJ賞を受賞した。

 『日本ナショナリズムの歴史』は、日本のナショナリズムを創成から形成過程、確立から崩壊、復活まで描き出した、日本で最初の著作である。

▲書籍編集者・前高文研代表 梅田正己氏(2018年9月20日、IWJ撮影)

 今回のJCJ賞受賞を受け、「出版ニュース」2018年8月中旬号に梅田氏による寄稿が掲載された。IWJでは、梅田氏と出版ニュース社の了承を得、全文を転載する。

第61回JCJ賞を受賞して(受賞作『日本ナショナリズムの歴史』(全4巻)高文研)
歴史学界、応答せよ ―― 一ジャーナリストからの呼びかけ
梅田正己 高文研前代表

 いま日本でナショナリズムがいわば剥きだしで露出していると見られるのは、政治の面では「日本会議」による政権中枢の掌握、言論表現の面ではいわゆる「嫌韓·嫌中本」の氾濫やネットにおけるヘイト放言の横行でしょう。

 では、こうした政治的・思想的潮流のルーツはどこにあるのか。それを突き止めたいというのが、私の『日本ナショナリズムの歴史』執筆のモチーフであり主題でもありました。

 そこで私が日本ナショナリズムの源流として設定したのが、18世紀後半の江戸時代に活動した国学者・本居宣長です。周知のように宜長は、万葉仮名で書かれているためそれまで誰もが読めなかった日本最古の歴史書『古事記』を35年かけて読み解き『古事記伝』44巻を仕上げました。

 その過程で宜長は「やまとことば」を”発掘“し、神々による建国の歴史を”発見“して、そこに日本の民族的アイデンティティーを見出していきます。一方、当時の日本のとくに上流階層の知的世界は、文字は漢字、文章は漢文、学問は儒学、道徳は儒教、そして思想は漢意(からごころ)と、中国伝来の文化に占拠されていました。つまり日本は、中国の「文化的植民地」状態にあったのです。

 そうした文化・学問状況に宜長は激しく苛立ち、中国の政治・思想に対する対抗心、敵惧心を燃やします――と考えなければ、宣長が『古事記伝』の「序説」、したがって彼にとっては最高に重要な論説である「直毘霊」(なおびのたま)において罵詈雑言としかいいようのない中国の政治・思想に対する非難・否定を書き連ねたことが理解できません。

 こうして宜長は中国による「文化的脅威」をバネにして、日本独自のやまとことばと建国の歴史にもとづく日本国のアイデンティティ—を確立します。その核心をひと言でいえば「日本は日の神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)に連なる代々の天皇によって永遠に統治される国」であるという命題であり、この思想はのちに大日本帝国憲法の第一、三条において法制化され(万世一系の天皇、之を統治す、神聖不可侵)、さらにのちの超国家主義の時代には「国体」の定義となるのです。

 以上のような思想的系譜から、私は本居宣長を日本ナショナリズムの源流と位置づけたのでした。

■宜長が日本ナショナリズムの源流

 では、その宣長は隣国の朝鮮や中国をどう見ていたのでしょうか。「直毘霊」(なおびのみたま)を書き上げてから6年後、47歳の宣長は朝鮮、中国との歴史的交渉を振り返った「馭戎慨言」(からおさめのうれたみごと)を執筆しています。両国との交渉の経過は『古事記』に、より詳しくは『日本書紀』に叙述されています。古代の部分はそれにもとづいて、それ以降は宣長独自の史論です。要約して紹介します(「 」は原文)。

――国内を平らげた秀吉は「いよいよかのもろこしの国までも御手に入れん」と思って、まず「朝鮮をしたがえて、道しるべさせてん」と考えた。しかし日本の指揮官の不手際もあって成功せず、再度出兵したが、戦局が進展せぬまま秀吉が病没した。そのことを宣長は「太閤かくれさせ給いぬるは、いとあえなく、くちおしきわざなりけり」と嘆いた後、秀吉は戦略を誤ったのではないかと判定します。

――「はじめよりまず明の国をこそ征ち給うべかりけれ」「朝鮮をへて、かの北京へ寄せんは」道程がありすぎるから、南の海の方から攻め込んで、まず南京を取ればよかった。そうすれば太閤の勇名は中国人たちも聞き知っているだろうから、江南の地方もおのずと制圧できるし、それから北京に向かえば「朝鮮の王子のごとく明王を生け捕らんことも難からず。」

■韓国併合はなぜ

 それから80年近くがたった幕末です。ペリー艦隊の黒船が来航して日本中が沸き立っている中、吉田松陰はペリーに頼んでの密航に失敗、萩の野山獄の中で「幽囚録」を書き、そこで彼の対外戦略構想を述べています。中心部分を意訳します。

――まず軍備拡張を急ぎ、軍艦や大砲がほぼ充足できたら、まず北海道に植民して諸大名にそこを守らせ、次いでロシアの隙をついてカムチャツカ半島やシベリア北部を占領し、一方、南の琉球王には国内の大名と同等の地位を与え、次に朝鮮に対しては古代と同様に日本に服属して朝貢させ、さらに満州を割き取り、南は台湾やフィリピンの島々を手中におさめて、しかる後に人民を愛し、兵士を育て、国境を守るならば、国は立派に立ってゆくだろう。

 手放しの領上拡大主義、帝国主義路線です。文中、朝鮮についてはごく簡単にふれているだけですが、実はこれの前に、朝鮮に関してこう述べているのです。

――朝鮮と満州は神州(日本)の西北にあり、「海を隔てて近きものなり」。そして朝鮮のごときは昔はわが国に臣属していたが、今や次第に生意気になってき
ている。どうしてそうなったのか、つまびらかにして、これを昔のように引き戻さなくてはならない。

 松陰はとくに『日本書紀』を典拠にして朝鮮はもともと日本に服属すべき国だと断定し、その再現を求めているのです。

 松蔭の松下村塾でその指導を受けた長州の下級武士たちは、薩摩や土佐の同志と手を結んで、倒幕・維新を達成し、新政権を樹立します。その出発からまもない明治6年、政府は「征韓」の派兵を前提に西郷隆盛の朝鮮派遣を閣議決定するのです。

 この計画は、米欧視察の長期出張から帰国した大久保利通らの猛反対によって挫折、西郷らは政権から去るのですが(明治6年の政変)、大久保らも征韓それ自体を否定していたわけではありません。

 その証拠に、わずか2年後、軍艦「雲揚」が悔軍司令部(つまり政府)公認の下に、江華島砲台の朝鮮守備隊を挑発攻撃して熾滅(江華島事件)、翌年、いわゆる砲艦外交で不平等条約「日朝修好条規」を強要締結したのです。

 それから6年後の明治15年、福沢諭吉は創刊したばかりの『時事新報』社説「朝鮮の交際を論ず」の冒頭にこう書きました。

――「日本と朝鮮を相対すれば、日本は強大にして朝鮮は小弱なり。日本は既に文明に進みて、朝鮮は尚未開なり。」

 そして3年後の同18年、有名な社説「脱亜論」を書くのですが、私にはそれから5カ月後の社説のタイトルの方が衝撃的でした。

――「朝鮮人民のために其国(そのくに)の滅亡を賀す」

 以後、日清戦争、日露戦争をへて明治43年、日本は「韓国併合」によって韓国(朝鮮)を「滅亡」させたのです。

■研究者の問題意識の欠如?

 しばらく前までは「嫌韓・嫌中本」が書店店頭の一等席を占拠し、ネットにはヘイトが飛び交うという、私には異様・異常としか見えない現象があふれていました。しかし歴史を振り返れば、非専門家の私が実証できる範囲でも、そうした韓国・中国観のルーツは本居宣長までさかのぼれるのです。根は深いといわざるを得ません。

 そう考えると、ナショナリズムの問題はいまなお私たち日本人にとって理性と道義の根幹にかかわる問題であるはずです。まして73年前までの日本は"負のナショナリズム“の極致ともいうべき超国家主義(ウルトラナショナリズム)の国でした。朝鮮を植民地支配下におき、日本軍は中国のほぼ全土を軍靴で踏みつけていました。その当時の朝鮮・中国観を、日本の一部はいまだに引きずっていることを、先の事例は示しており、またそれに共鳴しかねない”気分“が広く存在していることも各種の世論調査から見てとれます。

 日本の政治・思想状況はこのような現状です。ところが日本のナショナリズムがどうしてこんな有様になったのか、それを歴史的に跡づけ、検証した本は、私には見当たりませんでした。

 たとえば近世思想史の大家であった尾藤正英東大名誉教授の『日本の国家主義――「国体」思想の形成』(2014年、岩波書店)という本があります。書名から「日本のナショナリズム」の形成過程が叙述されているだろうと類推します。実際、第一部は「尊王攘夷思想」「皇国史観の成立」といった表題の論文で構成されています。しかし内容は山鹿素行や伊藤仁斎、新井白石、荻生祖株などの思想を分析した学術論文なのです。

 第二部には「本居宣長における宗教と国家」という論文が含まれています。しかし私が述べたようなナショナリズムとの関連についてはノータッチです。

 尾藤氏は1943年、東大国史学科に入学したその年、学徒出陣で戦地に送られた戦中派、超国家主義(ウルトラナショナリズム)に翻弄された世代です。当然、自分たちの青春を「尽忠報国」の精神的牢獄に閉じ込めた天皇制絶対主義にもとづく超国家主義の正体は何だったのか、それはどのようにしてつくられたのか、最大の関心事だったはずです。しかし、そうした問題意識をもって日本ナショナリズムの歴史的解明に向かった人は、管見の限りでは見当たりませんでした。

 それで一書籍編集者(ジャーナリスト)にすぎない歴史研究アマチュアの私が、身の程も知らずにこのテーマに挑み、日本ナショナリズムの源流を宣長に設定したほか、アマチュアの特権で自由な発想からいくつかの新説――たとえば政治的に無力になった天皇家が「武家の時代」700年をどうして生き抜いてきたのか、維新のリーダーたちは欧米をモデルにした議会制にもとづく近代国家をめざしながら、どうして王政復古の宮廷クーデターによって古代律令国家に逆戻りしていったのか、あるいは日本「軍国主義」はいつ、何を契機につくり出されたのか、など――を提起したのに、どういうわけか、専門研究者からはいまだに一通のご異議・ご意見も受け取っていません。

 黙殺はもちろん残念ですが、同時に研究のタコツボ化から生じる歴史学界全体の視野狭窄が気にかかってなりません。

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