【特別寄稿】1975年8月に青森県を襲った洪水を父が記録した映像「未曽有の惨禍 洪水の記録」を公開するにあたって(IWJ青森中継市民・しーずー) 2018.7.26

記事公開日:2018.7.26 テキスト
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(文:IWJ青森中継市民・しーずー)

 2018年1月に他界した伯父(父の兄)は、8mmビデオとスチールカメラが趣味で、父もその影響で、祖母が経営していた実家の米穀店の一角に写真店を構えるほど写真には入れ込んでいた。

 普段、父は、十和田湖や浅瀬石川(あせいしがわ)渓流・奥入瀬(おいらせ)渓流・八甲田山を題材に写真を撮っていたが、温泉地という事もあり、地方公務員を退職後、周辺の旅館やホテル相手に団体写真を撮るようになり、退職後に写真業を営むようになった。

 砂利道だった国道394号線の舗装拡張工事が終わり、南八甲田の城ヶ倉大橋(じょうがくらおおはし)が開通した時には、橋の開通記事と共に、父の写真が東奥日報の一面に4分の1ほどのサイズで掲載されるほどであった。

 また、当時、黒石市にあった大黒デパート内のカメラ店に集まっていた写真仲間とともに、休日となれば、そのクラブのメンバーたちと黒石映写クラブという同好会を作っていた。しばしば被写体探しに出かけていった。私も小学生中学生の頃は父とそのメンバーとともに、被写体を探すドライブによく連れて行ってもらった。

 その写真撮影活動の一端が、1975年8月20日の浅瀬石川流域の洪水記録だった。

 この洪水記録は、当時の青森県水害の記録として高い評価を受けて、TBS系ローカルの夕方のニュース番組で取り上げられ、父が代表としてスタジオでインタビューを受けた。また、青森県の防災担当の部署にこの映像記録は寄贈された。

 1975年8月20日、台風5号が青森県岩木(いわき)川流域を襲った。岩木川の支流である浅瀬石川上流に沖浦(おきうら)ダムがあった。敗戦の年、1945年に完成した、日本ではじめての多目的ダムであるが、この沖浦ダムは、1988年に浅瀬石川ダムが建設され、そのダム湖に水没することとなった。度重なる洪水によりダムの底に土砂が堆積して底が浅くなり、1975年2度の洪水でダムの機能が低下し大災害にいたった。

 黒石市と青森市を結ぶ、国道394号線沿いの、浅瀬石川の支流の中野川流域の集落(黒森地区、大川原地区)も多大な被害を被った。特に、沖浦ダムから放流された浅瀬石川と中野川が合流する袋井(ふくろい)地区(落合温泉)、板留(いたどめ)地区、南中野地区は水量が増し、その下流にある温湯(ぬるゆ)地区の温泉街は、ほぼ全滅に近い状況になった。

 また、温湯地区と袋井地区(落合温泉)を結ぶ橋は流され、南中野地区に通じる国道102号線は土砂崩れと、道路が流され寸断した。

▲青森県黒石市温泉郷(Googleマップより)

 当時、私は小学校5年生で、妹が小学校3年生だった。夏休みも残り4日で終ろうとしていた8月20日の朝6時、祖母の「起きろ」という声で目が覚めた。

 川の様子を見に行っていた父は血相を変えて、売り物の米を2階に運びはじめた。何があったのか、その時点ではわからなかったが、私も15キロの米なら運べるので手伝った。7時半ごろ、米を2階に上げ終わり、2階から川の様子を見た。

 川は少し谷になっているような地形なので、いつもは流れている水など見えないのだが、谷になっている形状の上まで、茶色い濁った水に流木などがものすごい勢いで流されているのが見えた。

 「もうあと1mも水位が上がれば、私の家も流される」と直感した。1階に下りた時は、家の前を流れる側溝からあふれた水が、床下まで迫っていた。

 8時ごろ、父はあわてて自動車を車庫から出し、「乗れ!」と、私と妹、祖母と母を乗せて、高台に逃げた。途中、合流地点の橋を横切ろうとした時、今にも流されようとしている家が見えた。濁流の音と共に、家が壊れていく「ミシッ」という音が何度も聞えた。

 少し高台になっている坂の上で、私と妹は震えながら車内で待機していた。父は8mmカメラと、35mmのカメラを持って橋の方向へ走った。私は父の安否の方が気になった。母も、「行かなくて良いから(撮影しなくて良いから)」と何度も叫んでいた。

 30分くらいたった頃、流されそうになっていた家がついに、大きな音を立てながら橋の下に流されていくのが、りんご畑の木のすき間から見えた。生まれてはじめての洪水の脅威に、妹と二人震えた。

 昼近く、川の水位が下がったとの情報に、私たち家族は自動車を高台に置いたまま、歩いて家に戻った。

 川辺には、私たち兄妹が卒園した幼稚園が移転していた。その幼稚園は私たち子どもの遊び場になっていたのだが、講堂の床板は剥がれ、窓も全て流されて骨組みだけがかろうじて建っていた。

 幼稚園の隣は、養豚・養鶏場だったのだが、豚も鳥も全て流され、川の崖の少しの土地にあった祖母の畑も、崖が崩れてなくなっていた。その畑から続く国道は、道路の部分が数百メートルに渡って流された上、土砂崩れによって私たちの集落は孤立してしまった。

 空には、自衛隊のヘリコプターと報道のヘリコプターが飛んでいて、自衛隊のヘリコプターはY字路になっている広い場所に着陸し、けが人を搬送していた。

 その後、小学校の夏休みが終わっても、道路が流されていたため、学校に行くには山の中を通らなければならなかった。半月後に流された橋や道路の復旧工事がはじまり、終わるまで2年くらいかかった記憶がある。

 家を流された同級生も数人いた。当時、沖浦ダム周辺や山中に住んでいて学校に通えない児童のための寮が氾濫した川の近くにあり、大きな被害にあっていた。私の家は幸い床下浸水で済んだのだが、伯母の家は1階部分の台所が全て流され、後片付けの手伝いに行って大変だったことを思い出す。

 災害から3ヶ月ほどたった頃、人気のない上流の谷間の崖が崩れて自然のダム湖ができたという情報が黒石市役所からもたらされた。自然にできたダム湖は、二次災害を回避するために半年ほどかけて水を抜かれて壊された。

 その後、現在の巨大な浅瀬石川ダムの建設がはじまり、上流に住んでいた同級生も立ち退き、我々の世代はほとんどが街に引っ越した。

 今でも、各地で豪雨による洪水が発生すると、小学校5年生の時の恐怖に震えた記憶が甦る。

 父はまだ元気だが、伯父が今年正月に亡くなり、寂しい思いをしている。父と伯父二人が後世に伝えた地元洪水の記録「未曾有の惨禍」を父の部屋から見つけて、父と母と甥と一緒に見た。

 この8mmフィルムは洪水の恐ろしさをあますところなく伝えている。父や伯父らの功績に改めて感謝するとともに、フィルムを譲り受けることになった私は、このフィルムとともに水害の恐ろしさを後世に伝えなければと思う。

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