国会を葬り去り、ナチ党の独裁を可能にした「国家緊急権」は、自民改憲案「緊急事態条項」と本質は同じ!~石田勇治氏「ワイマール憲法の末路 緊急事態条項は何をもたらしたか?」 2018.1.25

記事公開日:2018.1.26取材地: テキスト動画
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(取材:上杉英世 文:原佑介)

特集 緊急事態条項
※2月1日テキストを追加しました。

 自民党は2017年秋の衆院選で公約の最後に憲法改正を掲げ、そこに「緊急事態対応」という選挙向けの名称で「緊急事態条項」をもり込んでいた。国会から立法権をとり上げ、政府に立法権を与えるという「悪法」が、戦前のドイツで猛威を奮ったことはご存じの通りである。

 1月31日の自民党憲法改正推進本部では、「緊急事態条項」が議題に出され、政府への権力集中や基本的人権の制限を入れるかいなかで議論がまとまらず、結論が先送りにされた。3月25日に開催する自民党大会までに新たな改憲案をまとめる方針だという。ほとんどのマスコミは「9条3項加憲による自衛隊明記」のニュースばかりを報じているが、本丸は「緊急事態条項」である。

 遡って1月25日、東京都千代田区の参議院議員会館講堂で、戦争をさせない1000人委員会と立憲フォーラムの共催で、「安倍政治を終わらせよう 1.25院内集会」が開催され、石田勇治・東大大学院教授が「ワイマール憲法の末路 緊急事態条項は何をもたらしたか?」と題して講演をした。

▲石田勇治・東大大学院教授

 会の冒頭、立憲フォーラム代表の立憲民主党・近藤昭一衆議院議員があいさつに立ち、同党・武内則男 衆議院議員が「政高党低」だという国会の情勢を報告した後、講演が始まった。また、終演後には戦争をさせない1000人委員会から行動提起などがあった。司会進行は、立憲フォーラム事務局長・立憲民主党の江崎孝参議院議員が務めた。

 自民党は2017年秋の衆院選で公約の最後に憲法改正を掲げ、そこに「緊急事態対応」という選挙向けの名称で「緊急事態条項」をもり込んでいた。国会から立法権をとり上げ、国民の基本的人権を制限することを規定した「悪法」は、まさに戦前のドイツでナチスの独裁を可能にした「ナチスの手口」そのものである。

 当時最も民主的と言われたワイマール憲法下のドイツで、軍隊が武力クーデターを起こしたわけでもなく、憲法を改正することもなく、なぜヒトラーの独裁が成立したのか。その過程で緊急事態条項はどう関わっていたのか。年内にも改憲が発議されるという差し迫った今だからこそ、「ナチスの手口」をめぐる石田教授のお話をじっくりとお聞きいただきたい。

 なお、岩上安身は2016年7月1日、石田教授にロングインタビューを行っている。ヒトラーの独裁がどのようにして誕生したのか、丁寧に掘り下げてお訊きしているので、ぜひご覧いただきたい。

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■ハイライト

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今の日本は、ヒトラー前夜と似ている――ただし違いは「日本国憲法には緊急事態条項がないこと」!

 石田教授は1957年、京都生まれ。ドイツ現代史、ジェノサイド研究が専門で、著書に『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)『20世紀ドイツ史』(白水社)などがある。

 講演の冒頭、石田氏は「最近しばしば『今の日本は、ヒトラー前夜と似ているのではないか?』と訊ねられる、その通りだとは思うが、根本的に違うところがある。それは、日本国憲法には緊急事態条項がないことだ」と指摘。「それがもり込まれたら、戦前のドイツと同じような状況になる可能性が出てくる」と語った。

 石田教授によると、結果的にヒトラーの独裁を許すことになったワイマール憲法は、時代に先駆けるような内容を含んでいた。幅広い国民参加を考え、選挙は完全な比例代表、国民の基本権や古典的な自由権もすべてもり込まれていた。その上に、労使共同決定など社会的基本権、さらに生存権まで規定。それは戦後の日本国憲法第25条(生存権)にも影響を及ぼしているという。

 ワイマール憲法のシステムは、最近では「半大統領制」と呼ばれる。首相・閣僚の任免権や国会の解散権、そして緊急時に大統領に対して非常に大きな権限を与える緊急措置権など、大統領は強い権力を持っていた。

 一方で、国会もまた首相・閣僚の信任や大統領緊急令の廃止、大統領の罷免さえできる強い権力を持っていた。この大統領と国会の二元主義がワイマール憲法の特徴だ。

 ところが、当時「最も民主的」と言われたこの憲法が30年代初頭になって、存立の危機を迎える。石田氏は言う。

 「ドイツ共和国発足当初、国会ではワイマール憲法を支える共和派(社会民主党・民主党・中央党)が優勢でしたが、やがてドイツ帝国時代の帝政派・伝統的保守派が復活してきます。政党間の利害・イデオロギー対立が深まるなか、1930年9月の国会選挙で反共和国的なナチ党と共産党が台頭するに至って、国会の立法機能が弱まり、議会政治を見限る動きも顕著になってきました」

▲ヒトラーとヒンデンブルグ大統領(Wikipediaより)

発足当初の少数派議席のヒトラー政権を支えたのが、まさしく「緊急事態条項」だった! 国会は事実上の機能停止に!

 ナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)は1932年7月の国会選挙で第一党(得票率37.3%)となったが、同年11月の選挙では得票率を減らした(33.1%)。一方で、共産党は14.6%から16.8%へと得票率を伸ばし、第二党の社会民主党(20.4%)に迫る勢いだったという。

 ナチ党が凋落傾向にあったにもかかわらず、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーを首相に指名、1933年1月、ドイツ国家人民党(保守派)との連立政権が発足する。国会内の与党勢力は総議席584のうち248議席という少数派政権で、内閣不信任案が提出されれば政権が終わってしまう可能性もあった。そんな政権を支えたのが、ワイマール憲法第48条だった。それこそまさに、大統領の緊急措置権を定めた条項だった。

 石田氏はここで、「この第48条と自民党改憲草案の第98・99条とをぜひ読み比べてほしい。そこにある精神は、かなり近いものがあります。今になってそんな条文を加えることに、大きな疑問を感じます」と述べた。

 ワイマール憲法第48条2項には「共和国大統領は…公共の安寧と秩序を回復させるために必要な措置をとることができ」とある。この条文はこの後、様々な場面や目的で使われた。また、5項には「詳細は、共和国の法律でこれを定める」と書かれている。しかし結局、法律は定められなかった。このため、第48条はきわめて恣意的に運用されることになった。石田氏は言う。

 「自民党改正草案にも同様の文言がありますから、法律はつくられるのか、それはどのようなものになるのか、注視しなければなりません」

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 ワイマール憲法下、最後の4人の首相たち(ブリューニング、パーペン、シュライヒャー、ヒトラー)はいずれも議会で多数を取れなかった。それを第48条(大統領の緊急措置権)が支えたので、「大統領内閣」と揶揄された。他方、ヒンデンブルグは第一次世界大戦の国民的英雄ではあったが、ワイマール憲法の精神をほとんど理解していなかった。

 これら少数派政権の下では、国会を通過する法律が1930年に98本、1931年に34本、1932年に5本と、どんどんと激減し、一方で大統領令は1930年に5本、1931年に44本、1932年に66本と急増して、法律に取って代わっていく。国会不要論が指摘され、政治家たちは無責任になり、そこにヒトラー首相の連立政権が誕生。人々は、「決められる政治」を求めていたのだろう。

「強いドイツを実現する」という目標のもと、新興のナチ党と伝統的な保守層が結託 共産党員を拘束し、運営規則を変更して3分の2議席を確保すると、政権発足から54日目にして、授権法が成立!

 ドイツ財界は反共のナチ党が後退し、共産党が伸びている状態を憂えて、「ヒトラーを首相に」とヒンデンブルグに進言までしていたという。

 このとき、ヒンデンブルグ大統領は落ち目のヒトラーを引き入れ、飼い慣らそうとした。1933年1月、ヒトラー連立政権誕生。入閣したナチ党員はフリック(内相)とゲーリング(無任相)の二人のみ。大統領は保守勢力(ドイツ国家人民党)が周りを固めるので思い通りにいくと考えたのだろうが、全くの見込み違いだった。

 では、ナチ党という新興の右派勢力と伝統的なエリート保守層、この両者がなぜ手を組んだのだろうか? 石田氏はこう語る。

 「そこには、3つの共通した目標がありました。①議会制民主主義を終わらせる、②ナチ党の天敵であり、ブルジョア層も嫌いな共産党を粉砕する、③ベルサイユ条約を破棄し、再軍備を実現する。これらを実行することにより、強いドイツを実現するという目標が両者を結びつけました」

 ヒトラーは首相に就任すると、すぐさま国会を解散。選挙戦のさなかに、集会・デモ・言論を統制する大統領緊急令(2月4日)を発令。さらに2月27日に国会議事堂炎上事件が起こると、国民と国家を防衛するための大統領緊急令「議事堂炎上令」(2月28日)を公布し、国民の基本権を停止、共産党の国会議員などを拘束した。このほかにも、次々に大統領緊急令を発動していった。

▲国会議事堂放火事件(Wikipediaより)

 ヒトラーは当初から大統領緊急令では不十分だと考え、授権法の制定を考えていた。3月5日の国会選挙でナチ党の得票率は43.9%、連立相手の国家人民党と合わせても52%。授権法成立に必要な3分の2議席に届かなかった。そこで、2つの方法で3分の2議席を獲得しようとした。ひとつは前述した共産党全議員の拘束。そして、もうひとつは、石田教授によると次のようなものだった。

 「議決には、3分の2の出席者も必要でした。ですから、野党が退席すれば議決ができません。これが社会民主党の戦略でした。そこで、ふたつ目として、議決の直前に議院運営規則を『議長が認めることなく欠席した者は、出席とみなす』と変更しました。しかも、議場には相次ぐ拘束で人員不足に陥った警察に代わり、突撃隊が補助警察官として入り、彼らが『見張る』中で投票をするという異常な状況でもありました」

 

▲授権法成立後に演説を行うヒトラー(Wikipediaより)

 そして3月24日、政府に立法権をあたえるという授権法が成立。もともと議会政治は限界と見なされていた中で、もう誰も議会に期待しなくなった。政権発足からわずか54日目のことだった。

授権法は成立当時、「合法」の意見が圧倒的多数! ワイマール憲法が形骸化される中、大統領緊急令と授権法が憲法に代わる基盤として、ヒトラーの独裁体制を支えた

 授権法第2条には「憲法に違反しうる」という条文がある。これは、授権法は憲法を超えているということ、憲法を変えるに等しいということだ。石田氏は当時のドイツ国内の状況をこうまとめた。

 「現在ではありえない話ですが、当時は合法だという意見が圧倒的でした。誰も異論をはさみません。政権の側は、国民が自分たちの背後にいるのだから、こういうやり方で構わないと考えていました。これを『主権的独裁』と言います。授権法の成立により、まさに立憲主義の精神をことごとく打ち破るような法律が国民の名の下に実行されていきました。

 しかし、ワイマール憲法は維持されていました。形式上は、一度も廃止されていません。ただし、まさに形骸化され、空洞化されていったということです。ヒトラーはそのことをよくわかっていました。自分たちは憲法をつくらなければならないとも言っています。しかし、ナチ時代に新たな憲法が定められることは結局ありませんでした。

 ですから、ナチ時代というのは事実上、憲法がない状態でした。それでは、何にもとづいて国政が行われていたか――ふたつの法令です。ひとつは国会議事堂炎上の時に出された『議事堂炎上令』という大統領緊急令と、もうひとつが授権法です。このふたつが事実上、憲法に代わる基盤となるものとして、ドイツの独裁体制を支えました」

 翻って現在の日本の現状を見渡せば、年内にも安倍政権下で憲法「改正」の発議がなされるのでは、と言われているにもかかわらず、自民党改憲案の中心に位置している「緊急事態条項」に対する警戒感は相変わらず盛り上がらない。マスメディアの報道・論評は異常なまでに鈍い。当時最も民主的と言われた憲法の下でなぜヒトラー独裁が成立したのか、改めて「ナチスの手口」を学んでおかなければならない。

 終演後には客席から二人、質問に立った。

──法律と大統領緊急令で、1933年から再び法律が増えているのはなぜですか?

石田教授「法律は授権法体制のもとで、続々と制定されていきます。『決められる政治』になったからですね。そして、ヒンデンブルグ大統領が1932年の夏に亡くなります。ですから、大統領はもう存在しなくなる。1930年、1931年、1932年と法律はどんどん減る。1933年からぐっと増えている。それに対して、緊急令というのは1933年以降出ない。法律が増えているのは授権法体制下のなせる技で、別に議会主義が復活したわけではありません」

 

▲石田教授が使用したパワーポイント

──国会炎上事件の犯人には諸説あると思いますが、ご説明願えますか。

石田教授「これについてはいろいろな説があって、事件直後には裁判になっているケースもありました。そのとき被告になった4人のうち、1人だけが有罪になった。そのオランダ人の共産主義者が犯人だということで、当時はそれが結論となりました。

 ヒトラーはこの判決を見て、(3人を無罪にするような)こんな裁判じゃダメだということで、司法に介入するきっかけとなりました。ナチ政府は共産党の仕業だと言った。共産党は最初から全くの捏造だと言った。戦後、東ドイツでは当初からナチスの仕業だとされていました。

 この議論はずっと結論が出ないまま、両論併記のかたちになっていました。ところが、最近アメリカの著名な大学教授が当時の消防士の証言や資料と、共産党説を裏付ける他の証言とに矛盾があることを指摘しました。全体として仕組まれた可能性が高いという説が、今や主流になりつつあります」

 自民党憲法改正推進本部は1月31日、全体会合を開催し、緊急事態条項について議論を交わした。自民党は国民の批判を避けるために「人権の制限」規定は見送り、緊急時における国会議員の「任期の延長」規定を柱とする方針に傾いているが、党内で影響力をもつ石破茂氏などは人権の制限にこだわり、党内の意見集約は難航している。

 IWJは石田氏とともに共著『ナチスの「手口」と緊急事態条項』を著した長谷部恭男・早稲田大教授に岩上安身がインタビューし、緊急事態条項の危険性を詳しくお聞きしている。1月は「岩上安身のIWJ特報!」でも長谷部氏インタビューの内容を詳細に報じているので、あわせてご購読いただきたい。

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  1. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    国会を棺桶に送り「選挙で過半数を取った事がない」ナチ党の独裁を許したワイマール憲法第48条!自民改憲案「緊急事態条項」と本質は同じ~石田勇治氏「ワイマール憲法の末路 緊急事態条項は何をもたらしたか?」 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/410416 … @iwakamiyasumi
    緊急事態条項とは民主主義の終焉を意味する。
    https://twitter.com/55kurosuke/status/956817700596023301

  2. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    国会を葬り去り、ナチ党の独裁を可能にした「国家緊急権」は、自民改憲案「緊急事態条項」と本質は同じ!~石田勇治氏「ワイマール憲法の末路 緊急事態条項は何をもたらしたか?」 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/410416 … @iwakamiyasumi
    年内にも改憲が発議されるという差し迫った今こそ知るべき歴史的事実。
    https://twitter.com/55kurosuke/status/958788792369930240

  3. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    国会を葬り去り、ナチ党の独裁を可能にした「国家緊急権」は、自民改憲案「緊急事態条項」と本質は同じ!~石田勇治氏「ワイマール憲法の末路 緊急事態条項は何をもたらしたか?」 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/410416 … @iwakamiyasumi
    自民改憲案の本丸は「緊急事態条項」である。
    https://twitter.com/55kurosuke/status/1040421507833376768

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