【岩上安身のニュースのトリセツ】水害救助で見せた「国民の命を守る自衛隊」を「国民の命を守らない」と堂々公言する国防軍に変えてはいけない 2015.9.12

記事公開日:2015.9.12 テキスト
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(岩上安身)

 東日本を北上する台風17号による記録的な豪雨と、台風18号から変わった低気圧による豪雨によって、北関東や東北を主として各地で大きな被害が発生した。茨城県常総市では鬼怒川の堤防が決壊し、多くの家屋が飲み込まれた。2015年9月12日18時現在、一連の豪雨による死者は3人、けが人は27人にのぼり、記録的な大水害となった。

 10日の鬼怒川決壊から2日、広い範囲で浸水が続いている常総市では依然として15人が行方不明となっている。警察と消防、それに自衛隊では今も、2000人以上の態勢で捜索・救助活動を続けている。

 報道各社は鬼怒川の氾濫の様子と、自衛隊の救助ヘリによる救出活動を中継し続けた。そのなかの一場面。家屋に取り残された人と、そのすぐ近くで、今にも水流に飲み込まれそうになりながら必死に電信柱に掴まっている男性の姿をカメラは映していた。そこで自衛隊が取った行動に、中継を観ていた多くの国民は「え!?」と息をのんだ。

 救助ヘリは、電信柱の男性ではなく、近くの屋根に取り残された人を先に救出したのだ。安全そうな屋内の人を優先したこの行動に、多くの人は「自衛隊の判断ミスか?」「電信柱の男性に気づいていないのでは」と疑問の声があがった。しかしその直後、先に救助した家は流され、男性がしがみついている電信柱の方が残った。

 その後救助ヘリは無事、その男性も救出。自衛隊の的確な判断により、結果的に2人の命が救われた。これまで「災害救助」に特化し、経験を積んできた自衛隊の優れた状況判断に、多くの視聴者が喝采を送った。自衛隊は12日朝までに、1,371人もの人命を救った。

 この人命救助の際の、自衛隊の目覚ましい動きに、改めて感銘を受けた人は多かったに違いない。人命を救助することと、殺傷することは、正反対のベクトルを向いている。自衛隊は、国民の生命を守る組織として成長してきたということで、改めて実感とともに再確認できた出来事だっただろう。

 自衛隊は、急迫不正の侵害に対して、防衛の任務を負っている。そのことと、国民一人一人の命を守ることは、必ずしも矛盾しない。憲法13条にもとづき、国民の生命・財産を守る組織であるかぎり。しかし、自民党が創設を目指す国防軍という組織は、似て非なるものである。混同してはならない。

 元統合幕僚会議議長の栗栖弘臣氏は、『日本国防軍を創設せよ』(小学館文庫)という著書の中で、「『国を守るとはどういう意味か」と問いかけ、「今でも自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い」と書く。

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 はて。我々は誤解しているのか。眼前の自衛隊による人命救助は幻なのだろうか?

 栗栖弘臣元統幕議長は、『日本国防軍を創設せよ』の中で、こう続ける。「国民の生命、身体、財産を守るのは警察の使命(警察法)であって、武装集団たる自衛隊の任務ではない。自衛隊は『国の独立と平和を守る』(自衛隊法)のである」。では、国とは何か。個々の国民ではないのか。栗栖氏は明確に否定する。

 そして栗栖元統幕議長は、こう続ける。「『国』とは、わが国の歴史、伝統に基づく固有の文化、長い年月の間に醸成された国柄、天皇制を中心とする一体感を享受する民族、家族意識である。決して個々の国民を意味しない」。要するに「国体」を守るのであって、国民は守らない、というのだ。

 これが「国防軍の創設」を主張する者の本音であろう。国民は守らない。天皇制という抽象的な「国体」を「守る」と称するのである。文化だの、伝統だのというが、これは詭弁である。そもそも、茶道や華道などの伝統文化の防衛のために軍事組織が必要なはずはない。

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 彼らが天皇制を説明するとき、家族意識という言葉を持ち出すのだが、あくまで疑似家族国家であり、これは本物の家族のあり方から程遠いものだ。家族が家族意識を保持するために殺傷力が必要か? 家族意識は守るが、肝心の家族そのものの生命は守らない、というのは、家族のあり方として、根本的におかしくないだろうか?

 栗栖元統幕議長は、個々の国民を守らない理由として、「もし個々の国民を(守るべき対象として)指すとすると、自衛官も守られるべき国民であるから、生命を犠牲にするのは大きな矛盾である」と述べる。一見、まともなロジックに聞こえるが、相当におかしい。

 栗栖氏の論理を整理すると、擬似家族の家族意識を守るために、人を殺傷する国防軍が必要で、その兵隊も命を落とすのだから、家族の構成員たる個々の国民の命は守らない。命を守るのではなく、命を奪うのが使命なのだ、ということだ。そんな犠牲を払う疑似家族意識など迷惑である。

 戦争する他国民の生命も軽い。兵士の命も軽い。そして、自国民の命も軽い。人の命がすべて軽くなってこそ、かつての大日本帝国が遂行した侵略戦争と同様の戦争が、可能となる。目指しているのは、その地平ではないだろう。

 本来の家族のあり方から考えれば、何よりもまず、家族の命を守ることが最優先される。万が一、外敵が侵入して家族を傷つけようとしたら、その家族の命を守るために正当防衛を行うことは認められる。必要以上の、過剰防衛を行うということは、よけいに家族の成員を危険にさらす。第一に大事なことは、家族を守ることなのだ。

 そう考えてみれば、家を留守にして、米軍と徒党を組んで不要な争いを求めて、外に出かけることは、家族の安全を高めることにはならない。それが常識だ。集団的自衛権という名の、米帝国主義に追随する集団的侵略戦争は、真の意味で、家族、すなわち国民を守るものではないのである。

 「家族の常識」が通らないのは、どんな屁理屈を持ち出そうとも、「擬似家族意識」なるものは、本当の家族の意識ではないからだ。似非家族意識を守る(押し付ける)ために、兵士の命を、国民の命を、他国民の命を、守らないと宣言し、自衛隊では不都合だから国防軍にせよ、というのである。

 水害救助の様子を見て、国民の命を守る自衛隊でよかった、と心から思う。国民の命を守らない、と堂々と公言する国防軍に変えてくれるなと思う。外征可能な軍隊にして日本を留守にしてくれるなと思う。国防軍の正体を正直に述べてくれた栗栖弘臣元統幕議長には、大いに感謝したい。

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