ハルビン、ヒロシマ・ナガサキ、そして福島 〜医師・医学者の戦争責任・戦後責任を検証する ―講師 郷地秀夫氏 2015.2.14

記事公開日:2015.2.14取材地: 動画
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 2月14日(土)17時より、神戸市中央区にある兵庫県保険医協会で「『医の倫理—過去・現在・未来—』プレ企画 市民公開学習会 ハルビン、ヒロシマ・ナガサキ、そして福島—医師・医学者の戦争責任・戦後責任を検証する—」が開かれ、被爆者医療に長年取り組んできた医師の郷地秀夫氏が講演を行った。

■全編動画 1/3(16:58~ 13分間) ※録画2本目途中まで画面の撮影位置がずれております。ご了承ください。

■全編動画 2/3(17:12~ 12分間)

■全編動画 3/3(17:24~ 1時間37分)

  • 講演 郷地秀夫(ごうち・ひでお)氏(核戦争を防止する兵庫県医師の会代表、兵庫県保険医協会副理事長)

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「ハルビン、ヒロシマ・ナガサキ、そして福島 〜医師・医学者の戦争責任・戦後責任を検証する ―講師 郷地秀夫氏」への1件のフィードバック

  1. 弓場清孝 より:

    郷地先生のお話はとても参考になります。ところで、私の郷里である広島県神石郡は広島に投下された原爆と深く関わりがあります。当時、原爆が投下される前の広島というのは空爆で住宅など多くの建物が崩壊していたのですが、それらを片付けるために郡内から多くの人を集められたのですが、これを甲神部隊と名づけられました。甲とは神石郡に隣接する甲奴郡(現、府中市)のことで両郡の頭文字をとってこの名称とされたものです。そして、原爆が投下された8月6日をむかえるわけですが、壊れた家屋の片付けに向かわれていた部隊の人たちは原爆の直撃に遇い亡くなりました。あるいは宿舎で待機していた人たちも被爆(被曝)され亡くなった人もおられるのですが、このような人たちの救援、救護するため保健婦としての女性も含む郡内から再度、人が集められら広島市内に行かれたのですが、これらの人たちの多くは残留放射線により被曝され帰郷後に内部被曝により発症され亡くなった人も数知れないのです。これらの記録は井伏鱒二氏の「黒い雨」にも書かれてあります。その一節には「保健婦たちと違って焼跡を歩きまわった救護班員は高蓋村で二十一人のうち現地で一人が死んで、帰ってきて原爆病で十一人が死んだ。焼跡を歩きまわったというだけでこの有様だ。来見村では十六人のうち十五人が死んで一人生きている。仙養村では全部のものが亡くなった。」と記されています。もとよりこの井伏氏の「黒い雨」は「重松日記」をもとに書かれたものですが、事実であることには相違ないのです。そして、気づくのは焼跡を歩きまわったというのは何も爆心地付近だけではないということです。2キロや2・5キロの地域外も歩かれています。ここで考えられることの一つに吸引による被曝ではないでしょうか・・。当時の米軍の放射線測定は地域外の綿密な調査はしていません。これは何故かといえば郷地先生も言われるようにファーレル准将の「死ぬべき者は死んでしまい、九月上旬現在において、原爆放射能に苦しんでいるものは皆無だ」とする緘口令を当時の政府も認めたからだと思います。あるいはオッペンハイマーが「爆発の高度は、地面の放射能汚染により間接的な化学戦争となることがないよう、また通常爆発と同じ被害しか出ないよう」念入りに計算してあります。爆発から1時間もすれば、救援隊が町に入っても大丈夫です」というような発言を見逃すことはできないのです。これが現在の福島の被曝問題と深く関わってるといっても決して過言ではないでしょう・・。そして、原発で働く労働者の被曝問題も過小評価する一面はここにありと私は強く言いたいのです・・

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