「安倍さんを辞めさせないと、日本の将来も、沖縄の将来もない」~戦後から70年、仲里利信議員が沖縄戦の実体験を語る「なんとしても戦争だけは、させるわけにはいかない」 2015.2.5

記事公開日:2015.2.7取材地: テキスト動画
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(記事:IWJ・箕島望、記事構成:IWJ・安斎さや香)

※2月7日テキストを追加しました!

 「戦後70年、もう一度沖縄戦を語る~『知る沖縄戦』は教材にふさわしくないのか~」と題した講演会が2015年2月5日(木)、文京区民センターにて開催された。

 「子どもと教科書全国ネット21」の事務局長を務める俵義文氏は、主催団体として、会の主旨、経緯を説明。文科省が教科書の記述を正さないことが本会の立ち上げに繋がり、今のオール沖縄に結びついていると述べた。

 同じく主催の「沖縄戦首都圏の会」の柴田健氏は、「報告『知る沖縄戦』をめぐる動きについて」と題し、さらに詳しい経緯を説明。

 元沖縄県議会議長で、2014年12月の総選挙では沖縄4区から選出された仲里利信衆議院議員は、「私の沖縄戦、そして…」と題した特別報告を行い、自身が体験した生々しい戦争の記憶を通じて、戦争がどれほど醜いものかを語り、「なんとしても戦争だけは、させるわけにはいかない」と繰り返し訴えた。

■ハイライト

※都合により中継、収録は仲里氏のプログラムまでとなっております。

  • 司会挨拶-澤礼子氏(沖縄戦首都圏の会事務局)
  • 開会の挨拶-俵義文氏(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
  • 報告「知る沖縄戦」をめぐる動き-柴田健氏(沖縄戦首都圏の会事務局)
  • 特別報告「私の沖縄戦、そして…」 仲里利信氏(沖縄4区選出衆議院議員・元沖縄県議会議長)
  • 検証「知る沖縄戦」を読む-高橋順子氏(日本女子大学教員)
  • 報告「知る沖縄戦」を使った実践 川口芳彦氏(公立高校教員)
  • 質疑
  • 日時 2015年2月5日(木) 18:30~
  • 場所 文京区民センター2A(東京都文京区本郷)
  • 共催 沖縄戦の史実歪曲を許さず沖縄の真実を広める首都圏の会(沖縄戦首都圏の会)、沖縄平和ネットワーク首都圏の会

※以下、発言要旨を掲載します

2005年、文科省が検定教科書の記述削除を決定。裁判で否決されたがいまだに戻していない

俵義文氏「9年前までは高等学校の日本史教科書の検定で沖縄戦の集団自決が強制だった、とほとんどの教科書が書いていました。この記述は80年代の教科書問題以降、ほぼ定着して書かれていたものです。

 それを2005年の教科書検定で文科省が突然『通説ではない』『日本の強制だと書いてはいけない』とこれを削除、修正させました。文科省の決定、私たちはその決定の撤回を求めて、この会を立ち上げ、今日までの活動をしてきました。

 2005年大阪地方裁判所に起こされた裁判で、岩波書店を被告、沖縄戦の座間味村戦隊長が原告となり、その供述書を根拠としたものです。裁判は最高裁まで行き、沖縄戦集団自決について、軍の強制だったという判決が出されています。

 しかし、文科省は、検定上の撤回をいまだにしていません。この検定の問題は、沖縄では大きな怒りを買い、何回も上京し、文科省に申し入れしたがいまだに撤回されません。記述も完全に元には戻っていません。

 この戦いの中で、2006年9月27日に沖縄で11万6千人が集まり、大きな県民大会が開かれました。そのいの実行委員長が、本日これからお話しを伺う仲里さんです。

 昨年の名護市長選挙、知事選挙、全て沖縄の辺野古基地反対の人達が当選しました。同時に、翁長さんも選挙に出るその出発点は、96年の教科書問題だというふうに答えておられます。私たちがやってきた活動が、今のオール沖縄に結びついているということを、大変大きな確信とともに誇りに思っているところです」

「知る沖縄戦」をめぐる動き

柴田健氏(以下、柴田・敬称略)「私は沖縄戦首都圏の会事務局で、沖縄平和ネットワーク首都圏の会の代表をしています。

 『知る沖縄戦』は、朝日新聞の社会面、ネットでも紹介があり、教材として無料で配るということです。産経新聞が教育問題について、それぞれの地域の議員とつるんで、現場の教師をたたいて萎縮させるという構造がずっとありました。この問題もそのパターンで、10月26日から産経新聞に出ました。

 私どもが把握している最初が10月26日、朝日新聞作成の教材に日本軍の残虐性強調という記事が出ました。同じ日の別面で、この『知る沖縄戦』が偏向しているということで、最初の大きなキャンペーンを張りました。

 『知る沖縄戦』は、最初に若い人をつかみ、次が沖縄戦のQ&A、関係図書と続き、戦争経験者のインタビュー記事が続きます。最後、沖縄の今ということで、沖縄戦がメインですので、基地問題は軽く1ページだけという形で出ている、という構成になっています。高校生でもやっぱり教員が説明をしないと、理解が難しいといいますか、中身が高度な内容でまとめられているというふうに理解しています。

 ですが、全てではありませんけども、社会科の学習とか修学旅行の事前学習の教材としては、現場の教員である私から見ても、非常によくできた教材だと思っています。

 これに対してまず、10月29日に国会で、下村文科大臣に不適切だということを語らせるという常套手段がとられました。次いで11月2日、その文科大臣の答弁を踏まえて、文科省を動かし、副教材の適正使用通知が出ました。各学校の自由裁量権の多い副教材にもちょっかいを出す動きが少し出てきました。

 次いで大阪を中心に具体的に学校に介入が入ります。12月6日、大阪の松原の小学校で、強姦の記述が不適切だからと(教材が)回収されました。この時の有識者は誰か、お約束の藤岡信勝が出てくると。そういう人が彼らの言うところの有識者です。私どもの掌握している限りでは、10月の下旬から12月にかけて、相次いでこういうことが起きました」

終わったはずの話を産経が蒸し返した

柴田「私どもの団体は、岩波沖縄戦裁判をきっかけにできたわけですけども、これもご存じない方が多いかと思います。最高裁の確定から、逆戻りの形で説明します。

 最高裁確定して、大江健三郎さんの著書、岩波新書の『沖縄ノート』をつっつかれました。もう一個の家永三郎さんはお亡くなりになってますので、大江さんはご存命なのでつっつかれた。だから、家永三郎、大江健三郎という、日本の最高知性を狙って、裁判が起こされたということになります。大阪高裁の判決は、太平洋戦争の『沖縄ノート』の記述は妥当である。集団自決ついては、原告の訴えが否定されています。

 結局、渡嘉敷島でも座間味島でも、当時の分隊長たちが名誉棄損だと訴えたことは、完全に地裁、高裁、最高裁で全部はねられました。学問的な論証も含めて決着がついています。2011年の段階では終わったはずの話を、また産経が蒸し返した、ということです」

仲里氏が報告「私の沖縄戦、そして…」

仲里利信衆議院議員(以下、仲里・敬称略)「『はいさい、ぐすれお、ごくたんで、ねーむそーれん』沖縄の方言で『みなさん、おかわりございませんでしょうか』という意味です。

 沖縄にはいろんな方言があります。戦後は標準語でいこうと、方言をなくす運動をしましたが、今ではやはり、りっぱな文化である方言を継承発展させようと、私が議長の時に9月18日を島言葉(シマクトバ)の日と制定、極力方言を使うようにしています。

 私は来月78歳、戦争の時は8歳でした。先程から出ている産経新聞のみなさんから、例の教科書検定の時、だいぶ誹謗中傷いじめられ、我々のことに対していちいちケチをつけてきました。私どもが11万と言うと、いや、2万しかいないとかいう感じで」

住宅の近くにひめゆり部隊が配属され、毎日戦死者の火葬が続いた

仲里「今日は私の戦争体験ということですので、私の脳裏を、みんな出し、皆さんの戦争がどれほど醜いものであるかということをご理解をいただけたらいいなと、このように思っております。

 小学校2年から3年の時が戦争で、8人家族でしたが、一番末の弟がちょうど満1歳の生まれた時間に、栄養失調で亡くなりました。私がおんぶをして、母がやんばるで防空壕を掘るというような体験をした時、亡くなってます。

 私の住宅は、那覇から6キロ、南風原町の出身です。ちょうど『ひめゆりの塔』というTV番組の撮影したのが、私の家からおおむね100~200mぐらい離れたところでした。ちょうど戦争が終わる前、1944年10月10日が那覇の大空襲、『那覇十・十空襲』があります。南風原国民学校は撤退させられ、三十二軍の球部隊の野戦病院が作られました。そこに、ひめゆり隊が配属をされた、その地です。

 たまたま、学校の運動場のそばにトイレがあり、その中、二列に三段ベッドを置き、そこに毎日亡くなった人が5、6人ぐらいずっと安置されておりました。たまには手や足が動くような人たちも、死んだ者として、そのまま火葬されておりました。私の家から300mぐらい離れたところにある山の中腹で、毎晩火葬していた。火葬する時は、山の中から海ゆかばっこの曲が、流れてくる。この曲が流れてくると、ああ今日もまた火葬だなという風に思ってやっておりました」

戦争で全てを失い、白いご飯が食べられるまで10年かかった

仲里「私の父親は、戦前は南風原国民学校で教鞭をとりながら、まだ、宮城(きゅうじょう)を守るために、近衛兵(このえへい)ということで、何かの時は天皇陛下の顔も拝めるという位置にあったそうです。かなり裕福なほうだったと思います。

 けれども、あの沖縄戦争でなくなったもんですから、本当に大変でした。お袋は、農業もやったことがない、家事もあまりやったことがない。戦争で親父が亡くなったのはショックで、川の橋の欄干の上から飛び込もうとしてるのを、私が止めました。

 『なんでこんなことするの、御袋一人、食べさせるのは僕だってできるんだ』というようなことを言いましたら、涙を拭き拭き帰って来て、それから、まあ、一人でも負けない、男世界にも絶対負けないっていう信念がありました。

 私も終戦後、自分の生まれ故郷に帰り、折り畳み式のスコップ『エンピ』で耕し、葱や茄子、トマトを作りました。朝早く起きて那覇の市場まで4キロほどリュックサックを担いで売りに行き、そして学校に行くと。これをずっとやってまいりました。

 終戦後は特に何もない。最初は芋だけで、塩を入れてごはんを食べる。これは味も素っ気もない。小さい芋が採れる時には、大きい芋が欲しい。大きい芋が出ると、今度はお米が欲しいと。今度は芋が7、米が3割ぐらい混ぜてごはんを炊くというようなことで、いつになったら白いご飯が食べれるかなあと思いながら、おおむね10年ぐらいはかかりましたかね」

戦前、沖縄県民に預金は許されていなかった

仲里「この戦争終わった時、親父が残した金鵄勲章(きんしくんしょう)が3つありました。それを米軍のたばこと交換する。これをまた売って生活の足しにするという生活でした。

 そこで非常に気になりましたのが、実は戦前は、ほとんど預金というのは沖縄県民には許されておりませんでした。小学校でも毎学期1人50銭ぐらい持ってきて、お金を出すというふうなことでした。

 模合(モアイ)というのがあります。確か千円ぐらいの債券、国債。けれどもこの国債も戦争が終わった途端に、ただの紙切れになってしまいました。何の裏付けもない、これも、タバコと換えたり、あるいは兎と換えたりして生き延びました。

 戦争の時、食べ物で一番値打ちのあったのは兎です。多産系で一回にたくさん産み、非常においしいんです。だから兎何匹か持ってると、もう大金持ちで、こんなことを言ったらなんなんですけども、兎の味は、鶏の味に似ておりました。当然、蝉なんかも、あの蝉の背中がすごくおいしいんです。鼠も追っかけていって取って食べます。当然、蛙もおいしい。たまたま、子どもの時に、川で泳いでおりましたら、そこに手長海老がいるんですね。

 捕まえたら、お腹に玉子がいっぱいついてる。泥んこ水で皮をとってそのまま玉子ごと食べちゃったら、中毒しました。それ以来、海老は今でも見るだけでダメ、食べられません。こういうことで、戦争の時、本当に何でも食べましたですね。

 特に、ヤンバルに疎開をして生きましたけれども、多くの人達が疎開して来るから、一度に食べ物がなくなっちゃう。戦後はよく牛乳と一緒につけて食べる人たちがおりましたが、5cm角ぐらいの、乾パンでもないですね、厚みは、5mmぐらいしかないです。これが1人1枚、1日で配給がありました。それで、命を繋いだと、こう思っております。

 蚤虱がまたすごかったですね。もう頭から、体、縫い目なんかももう全部蚤です。で、これの消毒はDDTという白い粉があります。あれを頭からぶかっけるんです。

 私はまた、マラリアにもかかりました。毎日40℃ぐらいの熱が4日か5日ぐらい続きます。もの凄く寒いんです。いくら布団をかぶっても寒い。氷もない。井戸の水をずっとくんできて、もう、お袋なんか、いったりきたりです。それでも助かりました」

負けるのが分かっていたのに止められなかった戦争

仲里「だから、戦争のことを考えますと、本当に誰がこんな戦(いくさ)を仕掛けたのかなと、恨み辛みみたいな感じもありました。特に、私の親父なんかは、知っておったと思います。負けるということは。

 親父が学生に銃剣術を教えておったんです。青年学級というところの。で、親父にある日聞きました。『親父、これでどうすんの』と聞いたら、『鬼畜米英は、ヒージャービーだから、いわゆる目が青いから、10m先は見えない。落下傘から降りてきた時に、この竹やりで刺して殺すんだ』というようなことを、まことしやかに言っておったのを覚えております。

 そして飛行場でも、みんな駆り出されて、藁なんかを刈ってきて、飛行機が動くような形に置いてみせる。今の普天間飛行場も、戦前はこういうことをしてました。

 これぐらいの差がありながら、相手の原爆を持っている国に対して、このようなことを堂々と、最後の1人まで、沖縄は、本土決戦を引き延ばすためにがんばれということで、やられておったんです。

 実は牛島(満)中将が、初期の本部を撤退する時に、東京の大本営に打電をしたということがあります。それによると、『もう沖縄戦はこれ以上戦えません。むしろ、停戦降伏をやりたい』と打電しました。すると大本営からは、『最後の1人までがんばれ、引き伸ばし作戦をしろ』と、こういうことを言われて。その結果が、あのように多くの人達を、敵味方含めて23万とも言われています。あるいは、最低、県民の4人に1人は亡くなっております。

 このような、あのような戦争は絶対にさせるわけにはいかない。

 私の隣近所でも、宮崎に学童疎開し、戦争が終わって帰ってきたら、家族は全員、戦争で亡くなっていたと。小学校5、6年の2人とも。親戚の方が、引き取りましたが、それで、命を繋いだと言うんでしょうか。

 そのようなことを考えた時に、なんとしても戦争だけは、させるわけにはいかない」

あの教科書検定に、今のオール沖縄の原点がある

仲里「先程、先生方から、例の教科書検定の問題がありましたけれども、あの時の実行委員長が私でありましたけれども、何としても戦争につながることは拒否しなきゃいかんということで、いろんなところにまいりました。

 J-WAVEという東京の放送局もあります。18分の予定が30分に伸ばしてもらいました。あるいは、ニューヨーク・タイムズ。あるいはアルジャジーラ、彼達まで取材に来て、いろいろ、高等学校の取材をしてもらったり、いろいろやりました。

 私ども、実行委員のメンバーが26団体ありました。この団体のみなさんに、自分のところで、何名のみなさんが間違いなく参加することができるかと聞いたら、5万8千人ありました。それに全県民に呼びかけると、最低でも10万人は集まるなあという物算用をしておりました。けれども、実際は12万8千だったんです。野党の代表の県議が10万人と言ってしまい、その後、ちゃんと調査し12万人という報告をしたもんだから、『じゃあ11万人で折衷案でやりましょう』ということになっております。

 実際は、会場に来れない、6kmぐらいあたりから車が前に進まなく、歩いて、会場に来る人たちがいっぱいおりました。そういった人たちまで入れると、おそらく、15万人は優に集まったんじゃないかなと思います。

 これはやはり、日本軍の命令によって、集団自決が発生したということの『日本軍』がすっぽり取られてしまったんです。安倍総理に、第一次安倍内閣の時に。それに怒り出したのが、あの41市町村。全会一致で決定撤回を求める決議をやりました。

 最終的には、県議会でやりました。大江-岩波裁判と、この問題のとは何も関係ないよということで、強引に押し切って、これから、沖縄と日本政府が、必ず基地がある限り、対立する時があるということを、みなさんにも、ずっと言っておりました。

 だから、その時は、共産党さんも自民党さんも、自分達のことばかり言わないで、特に共産党さん、悪いけど、腹八分で、腹六分でも構わん。それぐらいしないと、オール沖縄は、成立しないぞというようなことでやりました。

 あの時点から、オール沖縄という言葉が実際は出てきております。このオール沖縄はなぜ、こんな言葉が出てきたかというと、やはり原点は、あの教科書検定であったと思っております」

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  1. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    「安倍さんを辞めさせないと、日本の将来も、沖縄の将来もない」~戦後から70年、仲里利信議員が沖縄戦の実体験を語る「なんとしても戦争だけは、させるわけにはいかない」 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/230524 … @iwakamiyasumi
    戦前、沖縄県民に預金は許されていなかった
    https://twitter.com/55kurosuke/status/585375034534797312

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