さまよい続けた「棄民」たちの凄惨な末路「お国のためにはどうでもいい」? 足尾鉱毒事件から学ぶ公害の問題点 2014.8.24

記事公開日:2014.8.25 テキスト動画
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(IWJ・原佑介)

 足尾鉱毒事件田中正造記念館と渡良瀬川研究会が8月24日、群馬県・館林市で第42回となる渡良瀬川鉱害シンポジウム「―学ぼう!館林と田中正造」を開催した。

 「公害の原点」と呼ばれる足尾鉱毒事件と、福島第一原発事故の共通点などが論じられた。

■ハイライト

  • 来賓あいさつ 安楽岡一雄氏(館林市長)/河本栄一氏(館林商工会議所会頭)/ご子孫紹介 小室和義氏・熊谷直人氏
  • 講演1
    前澤和之氏(館林市史編さんセンター専門委員)「館林の自由民権運動─曽祖父山口重脩の軌跡」
    岡屋紀子氏(館林市史編さんセンター学芸員)「館林の芸術家と鉱毒事件─荒井清三郎、小室翠雲、田山花袋」
  • 郷土芸能 田部井良雄氏「越名の舟唄・鉱毒悲歌」
    学習 「第4回大押出し(請願)運動と川俣事件の真相」グループ別群読
  • 講演2
    針ヶ谷照夫氏(田中正造記念館理事長)「群馬県鉱毒被害民等の北海道移住と悲惨な実態」
    菅井益郎氏(渡良瀬川研究会代表、國學院大学教授)「東電福島第一原発事故の現状と田中正造の思想」

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公害の原点「足尾鉱毒事件」とは

 足尾鉱毒事件とは、明治初期から栃木県、群馬県の渡良瀬川沿岸地域で起きた足尾銅山の公害事件のことだ。栃木県足尾の山で銅山の開発をしていた古河鉱業(現在の古河機械金属)が、銅の精錬過程で煙害、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質を生み出し、結果的に、山は荒廃し、渡良瀬川は汚染された。

 川魚は死滅。漁業だけでなく、大雨の影響で汚染された川が氾濫したことで田畑が荒れ、作物も育たず、農家も壊滅的被害を受けた。また、汚染された食物が出回ることで、多くの健康被害も引き起こしたといわれている。天皇陛下への直訴で知られる田中正造は、その半生をかけて足尾鉱毒事件の解決に奔走した。

足尾鉱毒で故郷を追われた人々

 田中正造記念館の理事長で、元板倉町長だった針ケ谷照夫さんは、当時、公害に苦しみ、北海道へ移住した群馬の被害民の実態を紹介した。

 渡良瀬川下流の住人らは、足尾鉱毒によって苦しめられていたが、明治43年8月に起こった「関東地方大洪水」は決定的打撃となった。群馬県の板倉などは2ヶ月ものあいだ水没し、住人らの生活は根底から崩壊した。

 そこで群馬県や栃木県は、北海道庁が推進していた拓殖計画を利用した。「水害罹災民対策」として、水害被災者の中から北海道への居住者を募り、団体移住を図ったのである。水害罹災民対策だけでなく、実際は「鉱毒被害民対策」という側面もあった、と針ケ谷さんは語る。

 翌年の明治44年4月7日、群馬県からは総勢67戸、約180名が北海道・留寿都村へ向けて出発した。「留寿都(るすつ)村までは雪が深く、2〜3尺(1尺=約30センチ)あった。でも行くときは、やむをえずの移住だったが、新しい場所への期待もあった。向こうについて3年間開墾すれば、一人あたり5ヘクタールが自分のものになると言われていた」と説明する。

 「ところが、留寿都村に着いてみたら、そこは(未開拓の)原生林だった。大変な状態で、木を切り倒さなければ作物も作れない」

 北海道の気候は群馬県とはまったく違う。冬の寒さは厳しく、農作物の作り方もまるで異なる。「冷害などで厳しい状態が続き、離脱者があとを絶たなかった。事前の話しと現地の様子が違い、入植予定地の調査がほとんどなかったのではないか、と言われている。割り当てられたところの大半が崖や谷だった」

足尾鉱毒事件の棄民の行方

 それから約70年後の昭和57年に行われた調査では、入植した67戸が、わずか2戸しか残っていなかった。そのさらに20年後には、残った2戸も移住し、群馬県からの入植者は、すべて留寿都村から去ったという。

 「ある者は地元へ引き返し、ある者は本州の別の地へ、あるいは北海道の他の地域に移っていった。群馬県の自分の街に帰った人たちは、10戸ばかり。私はその人たちを訪ねたが、近所からは『北海道』と呼ばれていた」

 棄民となった住民は、その後、差別に遭うなどした。針ケ谷さんは、「近代化は当時、国には大きな目標で、足尾銅山は大事な存在だったかもしれない。しかし、そのために渡良瀬川下流は大変な苦労をした。国からすれば、被害民など『お国のためにはどうでもいい』という一面もあった気がする。現在はどうか。原発関係の被害民も、温かく見られないのが現状。小さく見られる一面がどうしてもあるのかな、と思う」と述べ、足尾鉱毒事件と福島第一原発事故の類似性を指摘した。

「足尾、水俣であったことが福島でも起きている」

 渡良瀬川研究会の代表で国学院大学教授の菅井益郎さんは、「福島原発事故は終わっていない」というタイトルで講演した。

 現在、福島県の県民健康調査検討委員会は、8月24日、甲状腺がんの確定診断を受けた子どもが5月の発表時から7人増えて57名に、甲状腺がんの疑いがあると判定された子どもも7人増え、46人になったと発表した。菅井さんは次のように危機感をあらわす。

 「今までは子どもの甲状腺がんは100万人に1人と言われていたが、福島ではすでに50人以上が手術をしている。それでも健康管理委員会は『放射能の影響ではない、がん検診の精度が上がったからだ』と言っている。これから先も影響がない、ということはありえない。甲状腺を手術で取れば、一生、ホルモン剤を飲み続けなければいけない。事態は深刻になっている」

 さらに菅井さんは、「免疫不全などは因果関係がはっきりしないが、統計では放射能の影響は明らかだ」と指摘。「影響の認定が将来的に大きな問題になる。足尾、水俣であったことが福島でも起きている。我々はそれに先んじて論じなければいけない」と主張した。

 その上で、「田中正造は、利害関係なども踏まえ、鉱業条例に基づいて足尾銅山の鉱業停止を要求した。発生源を止めろ、と。今は、まず原発を止めろ。でなければ放射能汚染や、最終処分場の話もできない。被害者の補償の問題もある。原発を止めずに、『後処理をどうするか』という議論はできない」と語った。

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