「沼が命を救った」 ~「青森空襲を記録する会」体験を聞く会シリーズ2 青森空襲体験者 平泉喜久郎さんの証言 2013.11.28

記事公開日:2013.12.1取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ 阿部玲)

 「青森空襲を記録する会」による青森空襲の体験を聞く会シリーズ2回目として、2013年11月28日、平泉喜久郎さんの話を聞いた。1945年7月28日の青森空襲で、当時10歳の平泉さんは廣田神社の沼に逃げ込み、一命をとりとめた。貧弱な作りだった防空壕に逃げた者は、皆犠牲になってしまったという。

※ 青森空襲体験を聞くシリーズまとめ記事はこちら

■全編動画

  • 日時 2013年11月28日(木)
  • 協力 青森空襲を記録する会

子どもながらに「政府の感覚は国民とずれている」

 平泉さんは空襲当時10歳で、国民学校の4年生だった。「なぜ、青森みたいな田舎に、アメリカはわざわざ爆弾を落としに来たのだろう?」と、幼いながらも不思議だったという。「当時は竹槍で戦おうという時代。日露戦争の時だって、ロシアは弾丸を雨あられのように降らせて攻撃しているのに、上官は兵士に『行け! 行け!』と言うばかり」と話す平泉さんは、「明治時代から、政府というのは国民の感覚からずれている気がする。それは、今の時代もそうだ」と続けた。

 平泉さんは「私の父親は明治元年生まれ、母親は明治30年生まれ。その子どもが、21世紀の今、息をしているというのは、自分でも不思議。青森空襲の際に『疎開』ということがあったこと自体、記憶にない。自分の背より大きいスコップ持たされ、浪館まで行って開墾させられた、ということは覚えている」と振り返る。

小学生の友人は、グラマン戦闘機に撃たれて即死

 「友人が、グラマン戦闘機の20ミリ機銃で犠牲になった。こめかみを撃ち抜かれ、即死だった。グラマン爆弾はフラフラ落ちてくるので、小学生でも反対方向に逃げることができたが、機銃だけはどこに飛んでくるのかわからず、防ぎようがなかった。飛行士がニヤニヤ笑っているのが見えて、それが印象的だった。戦争をしているのにニヤニヤするとは、自分は理解ができなかった。

 空襲の前には米軍がビラを撒いたと、あとで聞いたが、自分は見たこともない。当初、函館と青森が攻撃予定だったが、天候の都合で青森になったということも、あとから知った。町中が焼かれ、逃げる所がなく、防火用水を使い、自分で焼夷弾を消した記憶がある。

 廣田神社の沼に逃げ込んだが、沼はお湯のようになり、翌日は鯉やフナが浮かんでいた。軍が川の水を濾過してくれて、それを飲んでいた。青森の場合、防空壕に入った人が皆亡くなった。あれは防空壕とは言わない。穴を掘って板を渡して土を盛っただけで、地上とほとんど変わらない。皆が窒息死した。竹槍の訓練もさせられたが、いったい何ができるというのか」

勝ち目のない戦争に、なぜ突入していくのか?

 「戦後は古川小学校に通った。3階建ての校舎で天井はあるが、窓枠も何もない。風が吹くとコンクリートの粉が飛んで来て、そこにみかん箱を持ち込んで、墨を塗った教科書で勉強した記憶がある」という。戦争の記憶だけはなく、「戦争は、なぜ始まるのか?」「なぜ、青森が空襲されたのか?」に関心があると、平泉さんは語る。

 あとで軍人の知人に聞いたら、「グラマンに対抗して鉄砲を撃ったとしても、当たらないし、撃ったらその10倍返ってくる」という。「弾もなかったし、だったら、すいませんと手を挙げればいいのに、それもしない。それが本土決戦とは、わけがわからない。沖縄決戦、東京大空襲、長崎、広島などで、それぞれ10万人規模が犠牲になった。青森は1300人ぐらいだろうか。政府は何の補償もしていない。自分の人生もあと何年もないが、体験を伝えることによって、最後のご奉公をしたい」。

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